第2話 「書き手と読み手」

 カク者があれば、ヨム者あり。

 両者は本来対等であり、相互理解の関係である。どちらかが優れているわけではないのだ。

        

           ────星野道雄



        

          ○


 私は、ちっちゃな悪ガキだった頃から映画や漫画に触れるのが大好きだった。それはもう、相対的にお外が嫌いになるくらい大好きだった。

 人生初めて自ら生み出した作品は小説ではなく漫画だったわけだが、それでも絵を描くということ、鉛筆で線を引き、色鉛筆で色を塗り、出来上がったそれは私を満たしてくれた。ポケモンみたいな何かだった気がする。スティッチとピクミンもいっぱい描いたかも。


「みっちゃんは絵が上手いね」


家族は私を褒めた。すると私も、なんだ私は絵が上手いんだ。となるわけである。

 しかしある時に気がつくのだ。おそらく似たような経験をした人もいることだろう。


 あれは小学生のころ、図工の授業で校庭の木をスケッチしようという課題があった。もちろん私は鼻息荒く取り組んだ。だって、絵が上手いんだもん。みんなそう言ってる。

 そして完成した絵を教室で見せ合いながら良いところを言おうみたいなコーナーがあり、私はある程度の賞賛を受けた。しかし、その時の私はなんだか落ち着かない気持ちになっていた。


 同じグループの、ある男子の描いた木の絵、それは明らかに私より上手かったからだ(しかも彼は小学生低学年にして既にイケメンだった)

 しかし何だかあまり評価されていないようである。本人も別に手応えは感じてなさそうに見えた。いやいやいや、君、バリ上手いよその絵、え、まじ、私の負けだよ。

 少なくても私は評価した。悔しいほどに。


 ──そう、「才能」に出会ったのである。 

 (個人の感想です)


 私は彼と話す仲だったので、その後も図工の度に彼の作品に注目していた。

 彼は正確に線を引き、正確にノコギリを扱い、正確にハサミをチョキチョキしてのりをペタペタしたりした。しかもイケメンだった。具体的には若い頃の水島ヒロに似ていた。

 

 確か高学年になったころ、方眼紙を自由に使って作品を作ろうとなった時に私は自分が何を作ったか今をもって思い出せないのに、彼が作った“ゴミ箱”を忘れない。

 なんと、彼は方眼紙を箱型に加工して立体にしたのだ! しかも輪ゴムか何かを使って接続部を作り出し、ワンタッチで箱のフタが開き、開くと中には“ゴミを分別しよう”という何とも社会派なメッセージまで仕込む始末だった。


 敗北である。それは完全なるものだった。

 私含むハナタレたちが平面の世界で何とか想像力を働かしている中、彼は次元を飛び越えて既に自由を手に入れていた。立体なのだ、もうどこまでも空へ伸びていける。しかし作り出したのが上から下へ、ゴミが落下して溜まる“ゴミ箱”という存在なのだからこれは世界に対する痛烈な皮肉であるか、彼が得た心理の一端に違いないのだろう。


 とにかくもう図工では敵わないと悟った。成績評価は私の方が良かったが、関係ない。私にとっては彼がナンバーワンだ。

 因みにその出来事は全く関係ないが、私はその頃からあんまり絵を描かなくなった。ディズニーが好きだったので父のプレステ2を借りて中古で買ったキングダムハーツにハマったのも原因の一つかもしれない。




           ◯


 少々の脱線がありましたが、一つ面白いと思ったエピソードがありますので紹介します。

 これはまさに書き手と読み手の話に通じるはず。


 中学三年生のころ、ある夏の土曜夜に映画「永遠の0」を地上波ノーカット放送すると話題になっていた。映画は当時大ヒットしていた後だったし、その放送が近づくと担任も朝のホームルームで戦争について学ぶ良い機会だと我々に鑑賞するように進めた。実際に私も両親にも見た方がいいと指導され観ることになった。


 映画は大変素晴らしかった。主演の俳優さんは母と一緒に見たドラマ「木更津キャッツアイ」から知っていたので特にカッコよく見えた。そして俳優の方々の演技だけではない。特攻という実際に行われた命令。戦争そのもの。それらに翻弄されつつも必死に生きた命の物語があったのである。と私には感じられた。主題歌も作品のテーマに沿って素敵だった。

 私は週明けに早速クラスの友人の一人に映画について話を振ってみることにした。



「映画見た? 面白かったね、とても感動したよ」


友人は言った。


「いやあ、親に言われて見たけど途中で見るのやめちゃった。飽きちゃって」


は?


 私は驚いた。あの作品のどこに飽きる要素があるというのか。その時点での私は原作小説は未履修だったが少なくても作品の放つ魅力の一端は実写映画として充分だったはずだ。

 しかし友人はさらに言った。


「なんかさ、ずっと戦闘機で戦ってくれたら良かったのに話ばっかりでつまらなかった」


──はあ?

──はああ?


“お前はもう映画見るんじゃねえ!!”



 と、私は中学生ながらそんなことを言いたいような言いたくないような複雑な気持ちになるのだった。



 しかし、ここにポイントがあるように思う。

 映画は何を伝えようとしていたのか。友人が何を読み取ったのか。作品が問題なわけではない。たとえそれがハクソーリッジでもショーシャンクの空にでも最強のふたりでも彼は同じようなことを言ったに違いない。アベンジャーズとかスターウォーズとかワイルドスピードが見たかったと言うに違いない。因みにそれらの作品群は私も大好き。


 要は好みの問題なのだ。

 私は好きだった。登場人物たちの心理描写、長い会話パートでも耐えうることができる。だが友人は好きじゃなかった。それだけの事だろう。

 私も映画を見返した時、たしかに戦闘機の空中戦は格好良かった。もっと見たいと思った。そういうことかと、どこか腑に落ちた。




 私の友人は読み手としての能力が劣っているのか?

 戦争を軽んじていて、娯楽ばかりにうつつを抜かす阿呆なのか?


 いいや、違う。その友人が夏休みの宿題で作ってきた戦争映画に対する感想文は素晴らしかった。友人はちゃんと答えを出していた。


 作り手はテーマを決めているはずだろう。これを伝えたい! これを感じてほしい!

 だが、それはあくまで一方的なラブコール。読み手はもっと自由で豊かだ。戦闘機の空中戦がもっと見たかった。それは作品に対する評価ではないか。言い換えれば、「もっと見たいくらいカッコ良かった」ということなのだから。


 私はどうしようもなく愚かだった。

 驕りがあった。

 私は絵が上手いし文章も上手いし、映画もよく見るし人より優れた感受性を持っているぜ! だからみんな私が思った通りの感想になるはずだぜ!


 そんなことはなく、全く間違いであった。


 作品とは様々な要素が絡み合い溶け込み合い、一つの形になっている。しかし本質は純粋であるに違いない。要は「おもしろいか」ということ。もっというと「おもしろいと感じられる部分があるか」ということ。さらに読み手によって多角的にそれらは評価され、全く同じものはあり得ない。優劣はない。それは人に与えられた自由、感受性なのだろう。人様に迷惑をかけなければどう思っても良いわけである。


 つまらない? おもしろい? そこに答えはない。全て正解だし全て不正解であるのだから。



 だからこそ、自分がこのカクヨムで活動していて思うのは交流の大切さであるように思える。人は一つとして完璧はない。他者からの刺激を受けてそれを作品に昇華する。ちょうどこのエッセイのように。



 クラスで一番絵が評価された私より優れた作品を作ったイケメンの彼。

 私より映画を観てないのに戦闘機描写の格好良さに私より早く気がついた友人。

 私は二人の作り出した感想や絵を読み取って自分なりに感じた。それすら“私だけの評価”でしかない。みんなもそうに違いない。あるのは好みだけ、くどいようだが優劣はない。




 読み手と書き手、カクヨムにもそれはある。

いろんな人が触れるから面白いのだと思う。

そこに「悪意」が無いのなら、その評価はとてもありがたいものだと思う。コメント、☆、♡、感謝せねばならない。「私はこう思ったよ!」と心の扉を開いてしかも見せてくれたのだから。

 




 つまり、グダグダと説教垂れた末にまとめさせて頂きますと……。

 

 

 みんな私の作品読んでね。

 手加減して読んでね。

 あわゆくば☆♡コメントで褒めてちょうだい。

 





────第三話に続く。

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