第三十三話『月下の密会』

時間は、ゆっくりと、しかし確実に流れていった。

活気のあった月影通りの喧騒は、いつしか遠のき、辺りは、夜の静寂と、月明かりだけが支配する世界へと変わっていた。


『――アッシュ君、そちらの様子は?』


耳に着けた通信機から、リリアーナの、潜められた声が聞こえる。


『……異常なし。そっちは?』

『こちらも。……静かすぎて、不気味なくらいね』


彼女の言う通りだった。まるで、この一角だけが、王都から切り離されてしまったかのような、不自然なほどの静けさ。

それは、これから始まる何かの、前触れのようでもあった。


それから、さらに一時間が経過しただろうか。

ついに、暗がりから、一人の人影が現れた。


(……ギデオン先輩か)


間違いない。俺の「内通者」だ。

彼は、まるで罪人のように俯き、絶えず周囲を気にしながら、約束の場所である、第三排水口の前へとやってきた。その顔は、恐怖と後悔で、青ざめて見える。


そして、ギデオンが到着してから、数分後。

もう一つの影が、音もなく、彼の背後に現れた。


(来たな……!)


月明かりが、その男の姿を照らし出す。

長身痩躯。黒いコートを纏い、その左頬には、メモにあった通り、生々しい十字の傷跡が刻まれている。

男は、クローリーのような下品さとは無縁の、冷たく、研ぎ澄まされた刃物のような危険な空気を放っていた。

この男が、サイラス。


「……遅かったな、ギデオン」


サイラスと名乗るであろう男が、低い声で言った。


「も、申し訳ありません……!少し、見張りが多くて……」

「言い訳は聞かん。例のものは?」

「は、はい。ここに……」


ギデオンは、震える手で、懐から一つのデータ水晶(データクリスタル)を取り出し、男に差し出した。


その瞬間、俺は、男へとシステムビューの焦点を合わせた。


【情報走査(スキャン)実行。対象:コードネーム『サイラス』】

【結果:魔力パターン、『汚染コード』と高い親和性を示す。危険レベル:高。要注意人物】

【追加情報:対象は『魔力偽装』の上級スキルを使用中。実際の魔力総量は、表示値の三倍以上と推定】


(……こいつ、とんでもない実力者だ)


クローリーなど、比較にならない。

表示されている魔力量ですら、学院の教官クラスだ。その三倍以上となると、もはや、騎士団の隊長クラスに匹敵するかもしれない。


「……確認した。これが報酬だ」


サイラスは、データ水晶を受け取ると、代わりに、小さな皮袋をギデオンに投げ渡す。


「次は五日後、同じ場所だ。遅れるな。……最近、騎士団の犬が嗅ぎ回っている。余計なヘマはするなよ。お前の可愛い妹が、どうなっても知らんぞ」

「ひっ……!わ、わかっております……!」


その冷酷な脅し文句に、ギデオンは、もはや、ただ頷くことしかできない。


取引は、終わった。

サイラスは、ギデオンに背を向けると、闇の中へと溶けるように、去ろうとする。


『――どうする、二人とも!?今、踏み込むべき!?』


通信機から、セレスの、焦った声が聞こえてくる。


『待って、セレス君!相手は一人よ、囲めば……!』


リリアーナも、好機と見たようだ。

だが、俺は、即座に、そして、冷静に、二人に告げた。


『――駄目だ。引け』


『なっ……!?でも、アッシュ君!』

『あの男は、俺たちが考えている以上に、危険すぎる。今、ここで戦っても、勝ち目はない。下手すれば、返り討ちにあうぞ』


俺の断言に、二人が息を飲む。


『俺たちの目的は、奴の正体を掴むことだったはずだ。顔も、声も、次の接触日時も分かった。目的は、もう、達成してる』

『…………』

『今は、この情報を持ち帰るのが、最優先だ。いいな?』


数秒の、重い沈黙。

やがて、リリアーナが、悔しさを押し殺したような声で、答えた。


『……分かったわ。あなたの言う通りね。……撤退しましょう』


俺たちは、サイラスの姿が、完全に闇に消えるのを待った。

そして、恐怖から解放され、その場にへたり込むギデオンにも、声をかけることなく、静かに、それぞれの持ち場から離れた。


今夜の狩りは、獲物の姿を、確かに捉えた。

だがそれは、俺たちが追う「蛇」が、想像を絶する、巨大な猛毒を持つ怪物であることを、思い知らされるだけの結果でもあった。

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