和食で騎士団を虜にした令嬢は、婚約破棄から人生やり直し中です 〜隣国で小料理屋をはじめたら、元婚約者が土下座してきました〜
梅澤 空
アンナの食卓編
第1話 婚約破棄と新たな旅立ち
「リーナ様。……応接室へ、ご案内いたします」
その声にリーナ・リヴィエは顔を上げ、使用人の冷ややかな目を見て、すぐにまた視線を伏せた。
今日は、婚約者であるエリオットとの月に一度の茶会の日だ。促されるまま歩き出すと、磨き上げられた床が窓からの光を鈍く反射しているのが目に入った。慣れ親しんだはずのクライド公爵家の廊下は、今日に限ってひどく冷たく感じられた。
使用人の足取りが、妙に慌ただしい。何かから逃げている――そう錯覚するほどだった。
「あの……」
書斎の前を通ると、ドアがわずかに開いていることに気づく。隙間から、熱を帯びた男女の囁き声が漏れ聞こえてきた。
リーナの足が止まる。先行していた使用人の背中が、びくりと強張った。けれど、彼女は振り返らない。逃げるように歩調を速め、角の向こうへ消えていく。取り残されたリーナの耳に、容赦なく言葉が流れ込んでくる。
「もうっ、まだ昼間よ?」
「ふふ、ミランダ。君はいいね」
エリオットの声だ。甘く、蕩ける響き。
「リーナなんて抱きしめても反応がない。氷みたいで息が詰まる。あれじゃ人形だよ」
「処女のくせにお高くとまってさ! 澄ました顔も本当に腹立つんだ」
甲高い女の笑い声。最近エリオットが気に入っているミランダ・バローズ男爵令嬢のものだろう。リーナの実家はもう落ち目だ、あいつの価値など顔だけだ、と嘲笑う声が続く。
「ねえ、エリオット様? リーナ様がいる限り、私たち結婚できないわ。何とかしてくれると嬉しいんだけど」
「ああ、そうだね。そうしよう」
衣擦れ、そして生々しい口づけの音。リーナの手が、衝動的に半開きのドアへと伸びた。だが、その指先が触れる寸前で、ぴたりと止まる。ここで取り乱せば、リヴィエ家の恥になる。見て見ぬ振りをしなさいという母の教えが、呪縛となって彼女の手足を縫い止めていた。
リーナは行き場を失った手を戻し、握りしめたスカートの布地を一度だけ強く引き、それから足音を殺してその場を離れた。
「エリオット様はしばらくお待ちいただきたいとのことです」
使用人が頭を下げ、部屋を出ていく。
それから、どれほどの時間が経っただろう。リーナは、一人きりの部屋で冷めかけた紅茶のカップを両手で包んだ。温もりは、もうほとんど残っていない。
「あれじゃ人形だよ」
エリオットの嘲笑が、耳の奥にこびりついて離れない。
紅茶を口元へ運ぼうとしたリーナの指先が、わずかに強張る。小刻みに揺れる琥珀色の水面に、氷のような母の眼差しが重なった。
『エリオット様の言う通りになさい。あなたの返事は「はい」だけでいいの』
弟が生まれてから、父の視線はリーナに向けられなくなった。跡取りさえいれば、娘は家を繋ぐための「道具」にすぎない。公爵家に嫁ぐための、物言わぬ綺麗な人形。
そうあろうとして、リーナは自ら心を閉じた。
没落しかけた家を支えるには、この婚約が必要だった。父の事業の失敗を、弟の学費を、使用人たちの生活を――全てこの婚約が支えている。だから、どれほど屈辱的な言葉を浴びせられても、どれほど他の女性との噂を聞かされても、リーナは微笑み続けた。
自らを偽り、媚びへつらう自分が吐き気がするほど嫌いだった。それでも、家族を見捨てることはできなかった。それが貴族の、リヴィエ家の長女としての責務だと、自分に言い聞かせてきた。
半時ほど経った頃、エリオット・クライドが応接室に現れた。彼の髪はわずかに乱れ、シャツのボタンが一つ外れている。
「待たせたね、リーナ」
エリオットは、芝居がかった声でそう告げると、遠くを見つめながら恍惚とした笑みを浮かべた。
「僕はね、運命の恋をしてしまったんだ」
「……左様でございますか」
リーナは、目の前の冷めきった紅茶を見つめたまま、一定のリズムで相槌を打った。
「ミランダといると身も心も解き放たれるんだ。君といると息が詰まってしまう」
エリオットは陶酔しきった様子で言葉を続けた。視線は宙を泳ぎ、時折窓の外を見やっては、うっとりと目を細める。おそらく先ほどのミランダとの時間を思い出しているのだろう。新しい恋がいかに運命的で、リーナとの時間がどれほど息苦しかったか。その独白の間、彼は一度たりともリーナの顔を見ない。自分だけの美しい悲劇の舞台に酔いしれていた。
「笑わない、怒らない、泣かない。君は人形と一緒にいるみたいで、男としてつまらない」
確かに、つまらない女かもしれない。家のための道具として生きろと言われ、その通りにしてきたのだから。
「君がもっと普通の女の子だったら、僕だってミランダに惹かれたりしなかった。つまり、こうなったのは君のせいでもあるんだよ」
その一言で、彼女の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
――自分のせいだというのか。
家のために、家族のために。感情を殺し、理不尽な要求も全て許容して「人形」を演じてきた結果が、これか。
ストン、とリーナの胸の奥で重い荷物が落ちた音がした。
この男のために、心を削って耐える必要など最初からなかったのだ。彼女を包んだのは絶望ではない。恐ろしいほどの解放感だった。
「……確かに」
声が出た。自分でも驚くほど、澄んだ声だった。
「あなたと一緒にいて楽しいことなど一度もありませんでした。浮気ですらどうでもいいと思っていました」
膝の上で握りしめていた拳を解く。掌には、爪の跡がくっきりと残っていた。
リーナはゆっくりと顔を上げた。
「ですが、それを『私のせい』とおっしゃるのは」
その瞳に、初めて意志の光が宿る。
「少々、勝手が過ぎるのでは?」
「え……?」
エリオットの完璧な微笑みが、凍りついた。
言葉を失い、その表情がみるみる引き攣っていく。その無様な様子を目にした瞬間、堪えきれない笑いがこみ上げてきた。
――いい気味だわ。
いつも自分を見下し、「人形」だと嘲笑っていた男が、得体の知れない恐怖に顔を歪ませている。胸がすく光景だった。
リーナは数秒、彼をじっと見つめ、そして極上の微笑みを浮かべた。唇の端だけが優雅に持ち上がり、瞳はひどく冴えている。
「『リーナ様さえいなければ』……でしたか?」
エリオットの顔から、さっと血の気が引いた。
「きみ……聞いていたのか……!」
「ええ。扉の前で」
リーナの声は穏やかだが、その瞳は冷え切っていた。
エリオットは言葉に詰まり、視線を泳がせた。そして引きつった笑顔を浮かべる。
「そ、そうか、それなら話は早い! リーナ、君は本当に理解のある女性だ」
エリオットは脂汗を浮かべながら、リーナの手を取ろうとした。
「これからは友人として、僕たちを祝福してくれるだろう? ミランダも喜ぶ。ぜひ結婚式には……!」
リーナは、もはや聞く価値もないと彼を一瞥し、踵を返した。
廊下を歩くリーナの足が、わずかに震えていた。遠巻きに見守る使用人たちの視線が、肌に突き刺さる。噂はもう、屋敷中に広まっているのだろう。それでもリーナは背筋を伸ばし、顔には何の表情も浮かべなかった。
***
自室に入り、扉に背中を預ける。ずる、と体が沈み込み、そのまま床へ崩れ落ちた。
姿見に映るのは、黒髪に青い瞳の女。エリオットが「つまらない」と切り捨てた顔だ。膝の上で、拳を強く握りしめる。母の教えを破った恐怖。だが、それ以上に――。
(私ばかりが、なんで!? 裏切ったのは彼の方だわ!)
叫び出したい衝動に駆られた、その時だった。
ドクン、と心臓が早鐘を打ち、吐き出す息が熱を帯びる。視界が白く明滅し、意識が遠のく。
脳裏に浮かんだのは、見知らぬ台所。温かい湯気の立つ皿に、料理を盛り付けている自分の手。そして、すぐ側で響く、誰かの優しい笑い声。
「美味しそうだね」
(誰の声? この記憶は、何?)
リーナはこめかみを押さえ、荒い呼吸を繰り返した。やがて痛みが引いていく。後に残ったのは、胸の奥に灯った小さな温かさだけ。母にも、父にも、エリオットにも感じたことのないその温かさ。それがひどく懐かしかった。
その日の夜、リーナは父の書斎に呼ばれた。
父に呼ばれるのは、婚約が決まった日以来だろうか。それ以来、父はリーナに用がなかった。
(婚約破棄の件かしら?)
リーナは一度だけ、すうっと息を吸い込んだ。そして背筋を伸ばし、書斎の扉を叩いた。
「入れ」
低い声。リーナは扉を開けた。
書斎の奥。重厚な机の向こうで父が顔を上げた。ランタンの光が、その眉間に深い影を落としている。
「お前は、何ということをしてくれたんだ!」
父の怒声が、書斎に響いた。
「クライド公爵家を侮辱するとは、正気か!? エリオット殿に恥をかかせたそうじゃないか! 淑女にあるまじき振る舞いだ! 恥を知れ!」
(私が……侮辱? クライド公爵家を?)
「我が家は、明日にも援助を打ち切られるのだぞ!」
その言葉で、ようやく全てを察した。あの男は、リーナを「加害者」に仕立て上げたのだ。リーナは、父の顔から視線を外し、彼の背後の壁に飾られた、先々代が王家から下賜されたという古い剣を見つめた。父が守りたいのは、娘ではない。あの剣が象徴する「過去の栄光」と、跡取りである弟、そしてクライド家からの援助だ。
そして父は、あの男の幼稚な芝居を、疑いもせずに信じている。
「だが、エリオット殿は温情をかけてくださった! お前を勘当することを条件に、公爵閣下へ取りなしてくださると! これを逃せば明日にはこの醜聞が広まり、弟の縁談にまで影響が出る!」
父の手のひらが叩きつけられ、紙束が舞い上がった。
「勘当だ! 出ていけ! お前一人のために、この家を潰すわけにはいかん!」
ランタンの光に照らされた父の顔は、保身と怒りで醜く歪んでいる。リーナの目には、家の体面と跡取りのことしか頭にない小さな男の姿が映っていた。
リーナは、完璧に美しいカーテシーをする。床に広がるスカートの裾が、冷たい床に触れた。
「承知いたしました。長らくお世話になりました」
早朝。リーナは、小さな鞄一つを手に、慣れ親しんだ廊下を歩いた。
玄関ホールへ下りる階段の踊り場に、母の姿があった。
母は、リーナの持つ鞄に目を落とした。その表情は、リーナには読み取れなかった。張り詰めていた母の肩がすっと落ち、深く息を吐きだした。そして細い声で囁く。
「お願いだから、早く出ていってちょうだい」
リーナの足が止まった。
「お母様……」
「あなたがここにいるだけで、クライド公爵家の機嫌を損ねてしまうわ。もし、あの子にまで何か影響があったら困るの。分かるわね?」
母は、リーナの顔を見ようとしなかった。鞄を握る手に力が入り、革の取っ手が掌に食い込む。
「……さようなら、お母様」
リーナは母の横を通り抜けた。通り過ぎざま、母の肩がわずかに震えたのが見えた。それでも振り返らず、そのまま進んで重い扉を開く。
外は、深い霧に包まれていた。霧の向こうから、朝日がゆっくりと射し込んでくる。リーナは立ち止まり、冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
霧に包まれた庭を背に、リーナは一度も振り返らず歩き出した。
***
王都の大通りは、朝の活気で満ちていた。
石畳を叩く馬車の蹄鉄の音。パンを焼く香ばしい匂い。行き交う人々の、絶え間ない話し声。屋敷の静けさしか知らなかったリーナは、初めて外国に来たかのように、その場に立ち尽くしていた。
すれ違う人々は、誰もリーナになど目もくれない。歩き方ひとつ、視線の位置ひとつで叱責されることはないのだ。その「無関心」が、今のリーナには何よりも心地よかった。
(誰も私を見ていない。誰にも咎められない……なんて自由なんだろう!)
高揚感に胸が打ち震える。だが、それも一瞬のことだった。小さな鞄を握りしめ、これからのことを考える。父に勘当され、帰る場所はない。なのに、行く先も決まっていない。漠然とした焦燥感が冷たい汗となって背中を伝った。
この街にいられないのなら、いっそのこと国を出ようか……だがそのための方法が何もわからない。貴族は皆、個人の馬車で移動する。平民には「乗合馬車」というものがあるとは本で読んだが、どこへ行けば乗れるのかはわからない。
途方に暮れて立ち尽くすリーナの脇を、人々が次々と追い抜いていく。その流れの先には、ひときわ大きな賑わいが見えた。
(あれは……?)
あそこなら、何か手がかりがあるかもしれない。リーナは鞄を握り直し、藁にもすがる思いで人混みの中へと歩き出した。
「さあ、見てってよ! 新鮮な魚だよ!」
「このリンゴ、甘いよー!」
一歩足を踏み入れた途端、声と熱気の渦に飲み込まれる。様々な食材の匂い、威勢のいい売り声、値引きを交渉するやり取り。何もかもが、リーナの常識を超えていた。
冷静に理解しようとしても、情報が多すぎて理解が追いつかない。なぜ、値段が変わるのだろう。その激しい人の波の中で、自分だけがどこへ行けばいいのかも分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「お嬢ちゃん、どこの子だい? 随分と綺麗な格好してるじゃないか」
野菜売りの女性が、人の好さそうな笑顔で話しかけてきた。だが、どう答えればいいのかわからない。リーナが口ごもっていると、周りの人たちの視線まで集まり始めた。上等な生地で仕立てられたリーナの服は、この場所ではあまりにも目立ちすぎた。
視線が刺さる。リーナは小さく頭を下げると、人混みをかき分け、市場の奥へと駆け出した。積み上げられた木箱の陰に身を寄せ、肩で息をする。
どうすればいいのか、誰に聞けばいいのか。時間だけが過ぎていく。肩が沈み、視線も足元へと落ちていく。
「あの子、大丈夫かしら」
ふと、穏やかな声が聞こえた。顔を上げると人の良さそうな初老の夫婦が、どうしたものかと顔を見合わせている。
「お嬢さん、何か困っているのかね?」
男性がゆっくりと近づいてくる。声に威圧感はなく、優しい声。リーナは咄嗟に身を強張らせたが、相手は一歩手前で立ち止まり、こちらが答えやすい距離を保ってくれた。
見ず知らずの相手。貴族として受けた教育が、安易に人を信じるなと警鐘を鳴らす。
頭に浮かぶのは、自分を勘当した父の冷たい目。でも――
ふぅ、と小さく息が漏れた。
(もう貴族じゃないのよね、私)
目の前の二人の眼差しは、父とは全く違う。温かくて、どこか懐かしい。もし、あの屋敷の世界が全てではないとしたら。震える唇で、リーナは言葉を絞り出した。
「……あの。隣国へ、ブランネル王国へ行きたいのです。どうすれば、いいのでしょうか」
夫婦は顔を見合わせると、にこりと微笑んだ。困っている子供を見つけた時のような、屈託のない笑顔だった。
「おやおや、それは奇遇じゃのう」
「私たちは、これからブランネル王国へ帰るところなのよ」
差し伸べられた救いの手に、リーナは呆然とする。こんなにも簡単に、助けてもらえるものなのだろうか。
『マルクと妻のアンナ』と名乗った男性に促され、リーナも消え入りそうな声で名乗る。
「リーナさんね。さ、一緒に行こう。旅は道連れ、世は情けって言うからの」
マルクが立ち上がろうとした、その時だった。
くぅぅ……。静かな路地裏に、リーナのお腹の音が切なく響いた。顔が真っ赤になるリーナを見て、アンナが楽しそうに笑う。
「あらあら、お腹が空いているのね」
彼女は小さな布の包みを取り出すと、リーナの手のひらに乗せ、指で優しく包み込んだ。
「これ、うちの食堂で出しているお菓子なの。良かったらどうぞ」
包みを開くと、素朴で甘い香りが広がった。
「……ありがとうございます」
手のひらに伝わる温かさが、凍えていた指先を解かしていく。見返りを求めない優しさ。そんなものがこの世界に存在するのだと、今更ながら知った。リーナは包みを握りしめ、こぼれそうになる涙を必死にこらえた。
「さ、それじゃあ駅馬車の乗り場へ急ごうかの!」
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