第10章:紅の反撃、年下の姉の咆哮
対バンライブのステージは、炎のように熱かった。
センターから放たれる照明が、観客の波を紅く染める。
Stella☆NovaとCrimson Beat――二つのグループが交差するこの夜は、ファンにとって特別な祝祭だった。
「皆さん、楽しんでますかーっ!!」
ハルの、伸びやかな声が天井を突き抜ける。
「Stella☆Nova!」「ハルさまー!」「王子〜〜〜!!」
呼応する歓声。
波のような音の中で、紅はその隣に立っていた。
まっすぐな姿勢。
芯のある瞳。
“妹”の役を演じるには、あまりにも静かすぎる強さ。
けれどファンは、それに気づかない。
あくまで「妹キャラ」として愛していた。
(……うちは、妹ちゃう。ほんまは、)
けれど、それを言葉にすることはない。
演じることに慣れてしまった自分。
誰もが求める“紅像”に自分を合わせて、
“かわいらしさ”を計算して口元を歪める。
ハルの王子様ムーブに、紅が“ふん”と顔を背ける。
観客が「尊い〜!」と歓声を上げる。
──予定調和。
──理想的な構図。
だが、その平衡は、ほんの一言で崩れた。
MC明け、ユニット曲の合間。
次の楽曲へのつなぎに、トークを挟む時間だった。
曲間のテンポを保つために、客席と軽くやりとりを交える。
そんな最中、ひとりの新規ファンらしき女性の声が、妙にクリアに響いた。
「え〜!でもさ、どうせ百合営業でしょ〜〜!?」
客席の一角がざわつく。
それは冗談交じりの声だったかもしれない。
けれど、会場全体に広がった“温度差”を作るには、十分すぎる破壊力だった。
(……今、なんて言った?)
紅の目に、火が灯った。
音楽はまだ始まっていない。
照明が次のキューを待つわずかな時間――
その沈黙の中で、紅は一歩、ステージの前へと踏み出しかけた。
ハルは、すぐに気づいた。
(……あのときと、同じ)
(紅、キレた)
紅の顔は静かだった。
感情を表に出していない。
けれど、その肩が、わずかに揺れている。
──怒ってる。
あの言葉を、受け止めてしまったんだ。
「営業」――
「作られた関係」――
「ほんとうじゃない」――
何が紅の怒りを最も刺激したのか、ハルには分かっていた。
それは“ふたりで作り上げてきた関係”が、
“作られた嘘”と一緒にされたこと。
そして何よりも――
「ハルちゃんが、“偽物みたい”に言われた」
──それが、許せなかった。
紅の拳が、そっと震えていた。
声をあげた観客を、視線で刺すように見ている。
けれど、その目は、どこか潤んでいた。
怒りだけじゃない。
悔しさと、悲しみと――
あの夜、楽屋で見た“泣きそうなハル”の背中を重ねていた。
(また、暴れる……)
ハルは思わずステージを半歩飛び出しかけた。
紅が怒っているのは、自分のため。
それは分かっている。
でも、また誰かを傷つけるようなことをしてしまったら、
今度こそ、紅が壊れてしまう。
(紅を止めなきゃ――)
次の瞬間、音が走った。
新しい楽曲が始まる直前、イントロが響く――その刹那。
紅は再び、一歩前に出た。
ハルの心がざわついた。
(やめて……紅……!)
そして――
ふたりの時間が、再び動き出す。
*
イントロが始まっても、紅の動きは音に乗らなかった。
舞台の光が踊り、観客のペンライトが揺れる中で、
紅の視線だけが、静かに、鋭く、前を貫いていた。
(……また、言われた)
(“営業”やろって。なんも知らんくせに)
(あの人が、どんなに優しくて、脆くて、繊細で、泣き虫で……)
言葉にできない感情が、胸の中で泡立っていく。
叫びたい。
でも叫んだら壊れる気がした。
壊れたら、きっとあの人が傷つく。
でも――
(守りたい)
その言葉だけが、紅の中で確かに燃えていた。
ステージの端、スタッフの影に紛れるようにして立っていたハルは、
その気配に、即座に気づいた。
あの夜と、まったく同じ。
怒りを超えた怒り。
誰かの無神経な一言が、紅の“スイッチ”を押してしまった瞬間。
ハルは走った。
光を裂いて、紅の背中に回り込む。
一瞬、手が迷った。
(ごめん、紅……でも)
「やめて、紅っ……!」
抱きしめる。
小さな肩を、力強く腕の中に閉じ込めた。
観客の歓声が一瞬、何かを察したようにざわめく。
でも、それすら気にしていられなかった。
「紅、お願い、やめて……また暴れたら、また、紅が傷つくよ……!」
紅の体が、びくりと震える。
けれどすぐに、その反応を見て、ハルは最後の手段に出た。
「……ごめん、紅」
囁くように、耳元で言って――
そっと、首筋に口づけた。
やわらかい感触。
甘くてくすぐったい、いつもの場所。
これまで何度も、これで紅は“ふにゃ〜”と力を抜いて、
おとなしくハルの腕の中でとろけてきた。
だからハルは、信じていた。
このキスで、すべてを終わらせられるって。
──でも。
紅は、ふにゃ〜……となりかけた。
ほんの一瞬、肩の力が抜けて、
「あ……」と小さく漏れる声も出た。
けれど、踏みとどまった。
ハルの腕の中で、ゆっくりと踏ん張り、
再び背筋を伸ばして、前を向いた。
その瞳は、まるで刃のように鋭く光っていた。
「……うち、もう“ふにゃ〜”じゃ止まらへん」
「え……?」
ハルはその言葉に、思わず抱きしめる力を緩める。
紅は、そっとその腕を解いた。
そして、ステージ前方へと一歩。
まっすぐに前を見つめるその眼差しには、
甘えもなければ、怒鳴り散らすような激情もなかった。
ただ、静かに、凍てついた意志だけがあった。
客席の一点。
あの言葉を放ったあたりの空間を、紅は射抜くように見つめる。
(あんたが、“営業”って言うたんやな)
(うちにとって、“ハルちゃん”が、どれだけ……)
(なんも、知らんくせに)
視線だけで、客席の空気が変わっていく。
まるで“訴えかけるような眼差し”ではなく、
“裁くような眼差し”だった。
隣で見ていたハルも、息を呑んでその様子を見ていた。
「……紅、変わったね」
「うん。うちは、もう“妹”ちゃう」
その背中には、かつての“甘えん坊”の影はなかった。
代わりにあったのは、
誰かを守るために立つ、年下の姉の背中だった。
マイクを持つ紅の手が、わずかに震えていた。
それでも、その震えに負ける気配はなかった。
照明がその姿だけを照らす。
ハルは、隣から見ていた。
いつもなら首筋キスで“ふにゃ〜”になる紅が、
いまはまっすぐ前を見て、観客席の中心へ視線を定めている。
(紅……)
(いま、ちゃんと“守る側”としてステージに立ってる)
(すごいよ、ほんとに)
紅は深く息を吸って、マイクを唇に近づけた。
「“営業やろ”って言葉、うち、聞こえとった」
「たぶん、冗談のつもりやったんやろなって、思っとる。
でもな、ハルちゃんのこと、うちが一番近くで見とって、
その“冗談”で、どれだけあの子が傷つくか――
うちは知っとる」
会場の空気が静かになった。
静かすぎて、呼吸の音が聞こえそうなほどだった。
「うちは、ハルちゃんの、つらい顔、何回も見てきた。
誰にも見せんとこで、笑顔つくって、帰ってきたら、ぐったりしとって。
そんなん見てきたから、営業とか、軽々しく言わんといて」
声が少し、震えた。
けれど、それでも紅は続けた。
「うちは、ハルちゃんが頑張っとるの、知っとる。
ひとつのセリフ練習するだけで、汗びっしょりになるとこも、
鏡の前で何度も踊って、転んで、
でも笑ってステージ立つ姿も、知っとる」
ハルは、思わず下を向いた。
バレてたんだ、全部。
(……情けないなあ。全部、見られてた)
でも、その顔を見て、紅はさらに強く言った。
「そんなハルちゃんを、
抱きしめたくて、甘やかしたくて、慰めたくて、なでなでしたくて。
そう思うの、当たり前やろが!」
「うちはな!」
「ハルちゃんが頭撫でてほしそうにしてたら、撫でするし!」
「泣きそうになったら、チョコ買うし!」
「眠そうにしてたら、ひざ貸すし!」
「疲れたって言われたら、服も脱がすし!タオルも渡すし!お風呂だっていれたる!」
「……べ、別に妹やからやないし!うちはお姉ちゃんなんや!」
「可愛いから! いとしいから! 好きやから!!」
客席がザワめいた。
「好きやから」の一言に反応したのか、何人かのファンが両手で口元を押さえた。
紅は気にしない。
というより、それすら気づいていない。
だってもう、言葉が止まらないのだ。
「うちは、ハルちゃんのこと、
誰にも渡したないし!なでなでしてええのはうちだけやし!
ハルちゃんにおやすみ言っていいのも、うちだけやし!
お風呂あがりの冷たい牛乳、先に飲んでええのも、うちだけやし!!」
「ハルちゃんに、ぎゅーってしてもろてええのも、
ほっぺすりすりされても許せるのも、
首筋にキスされてふにゃ〜ってなってもええのも、
うちだけやからな!!」
ハルが思わず吹き出しそうになりながら、手で口を押さえる。
観客の一部も笑い、でもそのほとんどが拍手や感嘆に変わっていた。
けれど紅の宣言は、まだ止まらない。
もはや語彙は尽きていた。
けれど、想いはあふれて止まらなかった。
「うちは……!」
「うちは……うちは……!」
「ハルちゃんが、いい子やから!ほんまにいい子やから!!」
「いい子で!頑張っとって!ダメで!すごくて!泣き虫で!愛おしくて!」
「だから!だから……!」
「ハルちゃんは、いい子なんやああああああああああああ!!」
「いい子!いい子!いい子ぉおおおおおおお!!!」
絶叫。
紅の言葉が、もう“語り”ではなく“叫び”になった瞬間。
観客の誰もが、息を呑んで――
そして、
「「「紅姉×ハル妹じゃん!!!!!」」」
大爆発した。
ハルは、涙をこらえながら、静かに一歩近づいて、紅の肩に手を置いた。
「……ありがと、紅」
「……うち、なに言うたか、あんま覚えてへん……」
「大丈夫、あたしも“首筋にキスしてふにゃ〜は紅だけ”ってバラされたし」
ふたりは見つめ合って――
ふっと、微笑んだ。
そして、会場に向かって手を繋いで、頭を下げる。
観客からは、「尊い!」「ありがとう!」の声が飛び交っていた。
スタッフルームのアキは、ヘッドセットを投げ出しかけていた。
「もう、あんたら最高か……!」
*
楽屋のドアが閉まった瞬間、
紅は、椅子に倒れ込むようにして顔を両手で覆った。
「むり……うち、今日むり……!!」
「や、最高だったよ、紅……!!まじで抱かれた……!」
「な、なに言うとるん!?今のでどんな感情になるん!?」
「尊敬と恋と全部まとめてきた……紅姉最高……!」
「……からかわんといて……もう、恥ずかしすぎて溶けそうや……」
紅の耳まで真っ赤だった。
さっきまで堂々とステージに立っていた少女とは思えないほど、
今の紅は、ぐったりと椅子に沈み込み、
カーディガンの袖で顔を隠しながら呻いていた。
その姿を、ハルはニコニコしながら後ろから抱きしめる。
「ありがとね、ほんとに。……あたし、助けられた」
「……うちが、助けたいから、やっただけやし」
「うん。でも嬉しかった。めっちゃ嬉しかった」
「もうやめてえ~~~!言わんといてえ~~~!!」
「じゃあもっと褒めるね?」
「やめてって言っとるのにいいい~~~~~!!」
そこへ、アキがドアを開けて入ってくる。
その手にはタブレットとスマホが数台。
額にはしっかり青筋が浮かんでいた。
「はい。とりあえず言いたいことあります。
おつかれさまでした。それから、なんでやねん。」
「な、なにが?」
「今まで会社が必死に“ハル姉×紅妹”で売ってきた努力……!」
「す、すみません……」
「なのに今、SNSのトレンドに“紅姉×ハル妹”が4つ入ってます!!!」
「えっそんなに!?すごくない!?」
「“甘やかすのは紅だけ”がハッシュタグ化してます!!」
「ええええ……」
「“紅姉”“なでなで独占権宣言”“営業じゃないやつ”って……なにこれ?」
「“営業じゃないやつ”は草」
ハルはちょっと笑いながら、そっとアキの背中に回り込んで、
彼女の肩に頭を預ける。
「でも、なんだかんだ盛り上がったし……よかった、んじゃない?」
「甘えるな!!!!」
「うわ、怖っ、アキこわっ!」
「あとでファン対応と公式声明とメディア調整と……あああああ!」
そんなアキの慌てっぷりを、
紅は少し離れたソファからそっと見ていた。
そして、小さな声でぽつり。
「……ほんまは、怒鳴るのも震えた。怖かった。
でも……ハルちゃんを、守れるの、うちしかおらんから」
それを聞いたハルは、静かに立ち上がり、
紅の横にちょこんと座ると、肩に頭をのせた。
「うん。だから、ありがとう。
あたし、今日、世界でいちばん幸せだったよ」
紅はちょっとだけ唇を尖らせた。
「……甘えすぎや、妹ちゃん」
「お姉ちゃん、甘やかして?」
「……しゃあないなあ」
その空気があまりに甘かったのか、
アキが思わず吐き捨てる。
「……なにこれ。スパダリ紅、爆誕じゃん」
*
数日後、事務所からの正式コメントが出た。
「新たな展開として、“紅姉×ハル妹”の表現も展開予定。
これまでの関係性とは異なる魅力としてお楽しみください」
SNSは再びトレンド入り。
“逆じゃん!”“待ってた!”“実はガチ説濃厚”など、さまざまな憶測と祭りが沸き起こる。
それでも、ふたりは変わらなかった。
夜、マンションのベッドルーム。
照明を落とした部屋の中で、ハルは紅の膝の上に丸くなっていた。
「……あたしさ、やっぱり……“姉キャラ”向いてなかったかも」
「そやな」
「即答……!」
「でも、甘えるハルちゃんが好きやから、うちはええと思う」
「……もう、めっちゃすき……」
「ふふ」
ふたりはそのまま、手を繋いだ。
「これから、どうする?」
「今まで通り。うちが甘やかす。ハルちゃんが甘える」
「公式は?」
「知らん」
「ファンは?」
「喜んどるやろ。うちらが、ほんまに一緒におるってわかったから」
「……そっか。そうだね」
その夜、ハルは夢を見た。
ステージの上で、紅と並んで歌っている夢。
ライトが眩しくて、歓声が優しくて――
でも、なにより隣に紅がいることが、何より安心だった。
もう、誰に何を言われても大丈夫。
この人が隣にいてくれたら、あたしはちゃんと笑っていられる。
そう思いながら、夢の中でハルはそっと呟いた。
「紅、ありがと。……だいすき」
そして夢の中の紅は、
変わらず優しい目で、こう言ってくれた。
「……甘えた、妹やなあ」
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