第5章:方言と、はじめての憧れ
プールから上がってシャワーを浴びたあと、
ふたりはマンションのテラスに面したラウンジで、バスローブのまま寄り添っていた。
足元にはやわらかなタオル、クッション代わりに折りたたんだバスタオル。
ひんやりとした夜の空気と、まだ肌に残る湯気が心地いい。
ハルは、紅の膝枕に甘えながら、ごろりと寝転んでいた。
髪は濡れたままで、タオルの間から水滴がぽつり、ぽつりと落ちる。
「……ねえ、紅」
「ん?」
「さっき言ってた“ハルちゃんに憧れた”って話、ちゃんと聞かせてよ」
「……ほんとに聞きたい?」
「聞きたい。すごく」
紅は少し笑って、ハルの髪を撫でながら、ぽつりと語り始めた。
「……わたし、三重の南のほうの山奥で育ったの。
海よりも山が近くて、夏は虫の声が賑やかで、冬は雪じゃなくて霜が降りてくるくらいの場所」
「へぇ……なんか、いいとこっぽい」
「うん。自然は、たくさんあった。
小学校の友達も、みんな小さいころから顔見知りで、
お母さんも、アイドルになりたいって言ったら、笑いながら応援してくれた」
そう言って、紅は少し間を置く。
どこか懐かしそうに、でも少しだけ切なさを混ぜて。
「だけど、中学に上がって、都会のオーディションに行くようになったら……
急に、“わたし”が通じなくなったの」
「通じない?」
「……最初の会場で、あいさつしたらね。
“おはようございます”のイントネーションだけで、笑われたの」
「……っ」
「“なにその訛り〜”って。
うまく返せなくて、頭が真っ白になって、
その日のオーディション、なにひとつ、できなかった」
紅の声は、どこまでも静かだった。
怒っているでも、泣きそうでもなく、ただ、静か。
それが余計に、ハルの胸をきゅっと締めつけた。
「……それでもやめなかったの、紅」
「うん。……やめようとは思わなかった。
だって、その前に……“あの動画”に出会ってたから」
紅の手が、ハルの髪の間をやさしく梳く。
夜風が吹いて、どこか遠くで車の音がした。
「小学五年のときかな。
YouTubeで、“ダンスのうまいアイドル”ってタイトルの切り抜きを見たの。
そこにいたのが――ハルちゃん」
その名前が出たとき、ハルの体が少しだけ動いた。
でも、顔はそのまま紅の膝の上。
「一瞬で、目が離せなくなった。
身体の動きがキレてて、音とぴったり合ってて……
画面越しなのに、“気持ち”がこっちまで届いてきたの。
こんなふうになりたい、って、思った」
「紅……」
「画面の中のハルちゃんは、遠くて、かっこよくて、ちょっとだけ怖いくらいだった。
自分とは正反対で、でも、憧れずにはいられなかった」
ハルはそっと目を閉じる。
そのとき、胸の奥がきゅうっと締めつけられるような感覚がした。
自分が、自分の知らないどこかで、
誰かの「はじまり」になれていたこと。
それは、言葉にできないほど、誇らしくて、うれしいことだった。
「……紅、ありがと」
「ん?」
「……あたしが、誰かの背中を押せたって、今聞いて……ほんとに、うれしかった。
それが紅だったってことが、もっと、うれしい」
紅がふふっと笑った。
「わたしも、ここまで来られてよかった。
あのときのハルちゃんが、今、目の前にいて、甘えてきてくれてるって……なんか、すごい」
「ばらすな〜〜〜〜〜っ、甘えキャラなの、隠してるのに〜〜〜〜」
「ばらさないよ。あたしの中だけに、しまっておくから」
ふたりの間に、ふわっとした沈黙が降りる。
照明のやわらかな光と、膝枕と、撫でる指先と。
甘さと、ちょっとした切なさと。
そのぜんぶがまざって、今だけの特別な空気が生まれていた。
「……ねぇ、紅。
昔の自分に、何か言えるとしたら、なんて言う?」
「……“あんた、がんばってるよ”って言うかな。
訛ってても、失敗しても、
いつか“自分のこと好き”って思える日が来るからって」
「……うん」
ハルがぎゅっと目を閉じて、微笑んだ。
「紅のこと、もっと好きになった」
「ふふ、そりゃどうも」
そっと夜風が吹き抜けて、
誰もいないラウンジの天井で、エアコンの低い音が鳴っていた。
紅の語った“はじまり”は、
ふたりの現在へ、まっすぐつながっている。
*
あの時の自分は…。
ステージ裏の鏡は、きらきらと光を跳ね返していた。
紅は自分の顔をじっと見つめながら、口角をゆっくりと上げてみる。
つくった笑顔。
それが“今日のわたし”だった。
「ねぇ、今日のステージ、紅ちゃん“宇宙から来た妖精”って言ってたよね?天才!」
「あれ、アドリブ? すごいセンス!」
「ぶっ飛んでてマジで尊敬しかない!」
周囲のスタッフが笑っている。
メンバーも「さすが紅〜」とからかうように笑っていた。
紅は、いつもの「とぼけ顔」を崩さない。
ぽつりと静かに「そうなん?知らんかった」と言ってみせる。
それが、“不思議キャラ”の立ち回りだった。
頭ではわかっていた。
これは“自分”じゃなくて、“役割”。
だけど、
そうしなければ、あの失笑された方言がまた出てしまう。
“変な子”として扱われるよりは、
“わざと変な子を演じている子”になったほうが、楽だった。
でも、夜になると――
ホテルのベッドの中で、天井を見つめながら、ぽつりと自問する。
「……あたしって、なんなんやろ」
方言を捨てて、標準語で喋る。
笑われないように、変わった答えを返す。
台本には「ミステリアスキャラでいこう」と書かれている。
気づけば、
誰よりも「キャラを維持」することに神経を使っていた。
ある日、レッスンの後。
控室にひとり残って、水を飲みながら、紅はノートを開いた。
それは、“自分ノート”。
誰にも見せていない、小さなメモ帳だった。
・無表情に見える目の開き方
・返事のしかたを少し遅らせるとミステリアスに見える
・方言、特に語尾に注意。「〜やんな」は危険
そう書き連ねたページの端には、
小さな字で、震えるように書かれていた。
「本当は、笑って喋りたい。ちゃんと伝えたい」
それでも前に進めたのは――
画面の中で、ずっと踊ってくれていた“あの人”がいたから。
YouTubeのブックマーク。
いつでも見られるようにしてある、ハルのダンス動画。
誰にも見せないように、音量をギリギリまで下げて、
夜の帰り道でイヤホンで聴くのが日課だった。
ハルは、堂々としていた。
自分を魅せることに、一切の迷いがなかった。
その“芯の強さ”に、いつも心を引っ張られていた。
「わたし、ああなれるかな……」
声に出すと、余計に現実味がなくなる。
でも、そう願っていた。
ある日のバラエティ収録中。
紅は“唐突に笑い出す不思議キャラ”として紹介され、
少し斜めの角度でカメラを見つめるように指示されていた。
「本番行きます! 3、2、1――」
「……なんで、今朝のバナナ、冷たかったんやろなあ……」
スタジオにクスッとした笑いが起きる。
進行役が拾って、すぐに別の話題へ。
番組が終わったあと、スタッフが「天才やね」と笑っていた。
紅は控え室に戻りながら、深くため息をついた。
“演じること”は、
思っていたよりも、ずっと孤独だった。
けれど――
その夜、ハルの動画を見ながら、
紅はゆっくりと自分の胸に手を当てていた。
「……でも、やっぱり、あの人みたいになりたいって、思ってる」
苦しい日々の中で、唯一、まっすぐに願えるもの。
それが、月島ハルだった。
そして――
「もし、会えたら……
いつか、ハルちゃんの隣に立てるくらいになりたい」
その願いは、まだ言葉にもならないくらい遠くにあったけれど、
それでも確かに、紅の中で、光のように燃えていた。
*
あのときの光景は、今でも忘れられない。
初めてハルと出会った、あのステージの裏。
紅が、楽屋の前で迷っていたとき――
カーテンの隙間から見えたのは、舞台で光っていた“月島ハル”の、
まるで別人のような姿だった。
「やだ〜〜〜アキ〜〜〜〜〜〜っ、つかれた〜〜〜〜〜〜〜!」
「はいはい、衣装を脱いで」
「やだっ、まだキラキラしてるのに〜〜!ステージ脱ぎたくない〜〜〜〜〜」
膝にタオルをかけて座り込み、
チュロスみたいにぐったりして甘え倒していたハル。
あの姿を、紅は衝撃とともに見た。
“王子様”じゃなかった。
“完璧アイドル”でもなかった。
ステージを降りたら、あんなに子どもみたいで、素直で、
でも、どこまでも愛おしい人だった。
その日から、紅の中の何かが、少しずつ変わっていった。
「自分らしくいたって、いいんじゃないか」
そう思えるようになったのは、あのときの“素”のハルを見たからだ。
もちろん、すぐにそうなれたわけじゃない。
不思議キャラは相変わらず必要だったし、
方言だって、うっかり出ないように常に気を張っていた。
でも――
心のどこかに、「出てもいいかもしれない」という余白ができていた。
*
プールの水面が、午後の光をきらきらと反射している。
ジャグジーで身体を温めたあと、ふたりはラウンジチェアに並んで横になっていた。
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、ハルは膝枕を求めて紅の足にもたれかかってくる。
「ん〜〜〜〜、紅〜〜〜、極楽〜〜〜〜〜〜……」
「なにそれ、おっさん?」
「今日のあたしは甘えモードですっ。いちゃいちゃさせてください〜〜〜」
「……はいはい。好きにしてええよ」
「……っ!?」
ハルがビクリと反応して、膝枕の上で跳ねた。
紅は一瞬「なにごと?」という顔をする。
「今の!!今の今の今の今の!!」
「な、なにが!?」
「出た!!方言出た!!!“してええよ”って言った〜〜〜〜!!!」
「……え。え、言った!?」
「言った!!!ああああ〜〜〜〜〜〜!!!!」
ハルは悶絶してタオルを顔に押しつけたまま、
プールサイドの床を転がる。
「最高か!? え、え、かわいすぎるんですけど!? なんでそんな自然に出すの!?言い直して!!もう一回言って!!!」
「無理無理無理無理!!忘れて!!!!!」
「忘れられない!!!!一生脳内再生される!!!」
紅の顔がみるみる赤くなる。
「もう、からかわんといてぇ……」
「あああ〜〜〜!かわいいの更新が止まらない〜〜〜〜〜〜〜!!!
“からかわんといてぇ”って言った〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
ハルはほとんど息切れして倒れていた。
紅は呆れたようにため息をついて、でもそっとハルの頬に手を伸ばす。
「……ほんと、バカやな。
そんなんで、そんな喜ばれるって、思わんかったわ」
ハルはその言葉に、静かに目を開けた。
「紅の方言はさ、かわいいってだけじゃなくて、
“素”の部分が出たときだけに聞ける声だから……
なんか、特別っていうか、あたしだけに見せてくれてるって感じがして、うれしいの」
「……ふふ。ずるいなあ、そういうこと言うんは」
紅はそっと身をかがめて、ハルの額にキスを落とす。
「そんなふうに思ってくれる人がおるなら、
もうちょっと、出してもええかなって……思えるよ」
「ほんと!? 今日から紅語録コレクション始める!!!」
「やっぱ、あかんかもしれん……!」
ふたりはくすくすと笑い合って、
濡れた髪と肌に残る熱を、お互いの体温で溶かすように抱き合った。
「ねぇ、紅」
「ん?」
「昔の頑張った自分に会えたら、なんて声かける?」
「……んー。“心配せんでええよ”って言うかな。
“あんたの言葉も、そのままで好きって言ってくれる人がおるから”って」
ハルは、そっと紅の首筋に唇を押し当てた。
それがふたりだけの、秘密のサイン。
「うん、正解。あたしが、その“好きな人”でいられるように、ずっと、いるから」
「……うちも、そやで。
ハルちゃんが、うちに“憧れてもろた”こと、誇りに思えるように、ちゃんとおるから」
そっと手が重なり、唇が触れ合う。
水音も消えて、世界にふたりだけが残るような静けさ。
紅が悩んできた言葉は、
今、愛されるものに変わっていく。
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