水に映る月(R15G)

 チィン……、と澄んだ音が空気を割いて耳に届く。ふぃと顔を上げて耳を澄ませば小さなその音がゆっくりと移動していた。


「まぁ、ここに現れる気配は限定されていますよね」

「めんどくせぇからもう殺したほうが早いだろ」

「この地に産まれた全能神を無視して秩序を乱すのはなぁ、もっと面倒そうなんだけど」

「玉帝様か。永くおうてはいないが話の分からぬ方ではないぞ。ちぃとばかり茶目っ気はあるが」

「………………そのタイプは絶対関わりたくないですね」

「同感だ」

「む。なにゆえ」


飲んでいた茶器を置くとシエルの身体には少し大きな椅子から飛び降りて扉へ向かう。その後を当たり前のようについていくアッシュの後をこれまたのこのことついていこうとする二人にピタリと足を止めて振り返った。


「君等は来なくていいんですよ…」

「心配ではないか」

「えー、だってシエルちゃん」

「邪魔だろ」


そわそわと本当に心配している顔に苦笑した。


「君達が怪我をしたら困るんだけどな」


仕方ないなと足を進めようとした瞬間に身体全部を攫うように優しい腕に包まれた。重力を横に感じる。


「アッシュ、何処」

「そこ」


高く飛んで岩場の上へと着地すると2つほど先の足場に体を低くして唸る獣が千切れかけた片腕を押さえてこちらを睨んでいた。


「身体は大体くっつけたのか、思ったより珠の瘴気は美味かったようですね」

「まぁ、あの地下洞穴はそこまで死者の数は多くないが神の瘴気を吸っているからな」

「うわ、崩れる崩れる!シエルちゃーん、平気ー?」

「む、愛人あいれん殿 また何かしたのかあやつは。速いのぅ…見えなんだぞ」

「悪さをする腕なんぞいらんだろ」

「なー、ターゲットがにーさんならシエルちゃんは一緒にいない方がいいんじゃないの」


傍にロックハートを呼び出し空気の結界を張ったようだ。俺が守ろうかとでもいいたげに足場に駆け寄る。


「ふふ、ありがとう。でもアッシュの腕の中以上にこの世に安全な場所はないんですよ」

「う…、そか。気を付けてな」

「番人も気をつけよ。あの馬鹿者は邪魔だと思えば何も構わず全部破壊する」

「りょー、かい。自分の無事を最優先します」


ゆったりと袖に腕を通して草履をつっかけて八雲が寄る。この場にいる全員が自分の身を守ることには問題はなさそうだが、なにせアッシュがシエル以外には未知数で油断できない。

唸る獣が距離を測りながら四つ足の体勢で体を低くしてこちらを警戒している。左腕は肩からブラブラしているためすぐには使い物にならないだろう。


「殺すだけなら簡単だが、どうする。それは避けたいんだろ」

「うん、あんまり新しい神には関わりたくない。どうするかな…、動けなくしたら巣に帰って寝ると思ったのに復讐を優先するなんて、祟り神と言うやつは厄介だな」

「怨嗟を糧に生きてるんだ、まぁ動ける可能性を持ち込んだのも俺達だし仕方あるまい」

「んー…、首輪で縛ってもいいけどあのテは無頼漢であることが存在意義なのでしょうし、下手に大人しくさせてもな…、聞いてみようか」

「また懐かれても知らんぞ」


嫌そうに突き放すのに嘘ばっかり、と笑う。八雲に対するのとは比べものにならないほどの嫌悪感を感じる。付きまとわれでもしたら今度こそアッシュを止める自信などなかった。


「そんな事になったら本当に国を消しそうだから気をつけるとしましょう」

「何する」

「ちょっとだけ」


とん、といつものように腕を叩いて離してくれと合図をする。だが今回に限っては一瞬でも離したくないのだろう、それはそれは嫌そうな顔をされた。


「アッシュ、お願いだから」

「……嫌なんだが」

「すぐ戻ります」

「シエル…」

「暫く我儘言わないから」


見上げてくるシエルにこの上なく渋い顔で睨み合った後、小さくため息をついて後ろ頭を手のひらで包みこみ小さな唇に深く噛みつく。


「…ッん、んぅ……、こ ら……」

「…これくらいは許されるだろ」

「この姿ではやめてといってるのに…、仕方ないな」


「ちょっとー!何してんのさー」


ぷりぷりとした声が足元から聞こえてくる。本来ならばずっとこうして過ごしていたいのだ、文句を言われる筋合いなどない。


「危険だと思ったら即回収するぞ」

「…回収」

「何だ、そもそも聞いてやる必要があるか」

「わかりましたよ、ごめん 心配かける」

「…ん、早く終わらせろ」


ちゅ、と頬に口づけてからそっと岩場へ下ろしてやる。離してやっただけで傍を離れることはせず不満そうに傍らで獣を気怠そうに睨みつけていた。


 ……なん、だ。何を話している…? 今、開いた扉から美味そうな匂いがしたから何気なく手を出したらふっ飛ばされた。誰が何をしたかも分からない、八雲ではないだろう、またあの俺に敵意を隠しもしない男だろうか。彼奴の周りには空気の断面でもあるかのように、近づけば身体を削られる。迂闊には寄れなかった。

 ………? 童が一人で岩山に降り立った。とんとん、と軽い音を立て足場迄降りてくる。何だ…?

とことこと近づいてくる… あまりに無防備でそれが余計に警戒心を煽った。

何をする気だ……?


「ねぇ、君はどうしたら満足して家へ帰るの?」


……何を言っているのだこいつは。


「……な、…にを 言ってる、ん だァ…?」

「痛いでしょう、疲れたでしょう。帰らないんですか」

「お、まえ……、」

「ここでお前が誰かを害する事はできないし、先日の痛みの復讐も、今その身体に受けている痛みもやわらぐことはない。なのに何のためにお前は此処にいるんです?」

「…こ、ろ ス……、殺 して…、喰って、やらな イと気が…」

「気がすまないから僕達を殺すまで此処にいるの」


ついと手を伸ばして届かないギリギリ程度の位置まで来たかと思えば小さな身体が膝を折って覗き込むように顔を見てくる。頬杖をつき、首を傾げ、目の前にいるのが可愛らしい子犬であるかのように聞いてきた。


「でも、君 僕達は殺せないけど。それでも頑張るの、殺せるまで?無理なんだけどな」

「………は…?」

「殺すどころか触れることも出来ないけど、どうするの。此処に居られても邪魔なんです。大人しく帰って自分の巣で眠りなさい。それともおまえは肉片にされて永劫自由などない深淵で眠りたいのかな」


この童の言っている言葉がわからない。

何一つ分からない。

こいつを殺して噛み付いて、肉を喰い、骨をしゃぶる事など簡単なことだ。だが今確かに自分の身体が自分の意思で動かせない。

なのにこてりと首を傾げて『出来ないよ』と可愛らしく告げてきた。

出来ない? 一体何が出来ないというのか。

何を言っているのだ 何を言っているのだ 何を言っているのだ。

一体こいつは何を言っている の、だ。


「う…、ガァアァァアアァァアアッ、ガァア!」


瞬間、千切れかけた腕を無造作に引きちぎり童に向けて投げつけた。この距離だ、喉元を捕らえ、つぶし、声を奪えばこんな戯言はもうしゃべれまい。


「納得できない顔をしているなぁ」


ふぅ、と我儘な童に呆れる母親のようなことをいって、ぱたぱたと膝を払って何事もなかったかのように立ち上がる。

……俺の…腕、は…?

ボタボタと離れた場所に細切れになって何か赤い塊が落ちた。

太陽が背になり蚩尤の顔に影を落とす。

見下ろした童の顔が酷く冷たく、声が深く、視線が凍りつくように変わって見えた。


「今おまえは月が欲しいと我儘を言う子供なんだよ。わからないのか …なァ?」


ざわりと総毛立ち一瞬で童から距離をとるように後ろへ飛び退いた。動けたと言うよりは童の声と視線がそうさせた。勝手に。俺の意思は変わらずない。


「帰れ。獣はもっと利口なものですよ。犬でも伏せろと教えれば可愛く従うというのに」

「………おまえは、…なん、だ ァ」

「僕は…、なんでしょうね。答えたら大人しく帰るのかな」


びくりと体を固まらせて威嚇する。目的をあきらめる気はないのだ、だが身体が動かない。目の前にいるのは見目麗しいだけのただの童だと言うのに。ギチリと奥歯を噛み締めて動かない身体に命令を下す。

あの子供を引き裂け、千切って痛みと怒りと絶望に屈服させろ、腹に入れたらどんなに満たしてくれることか!


「お前のために言っているのに、従えないなら もうお前の意思は聞かないけど…、 いい?」


ふ、と双眸を薄めて微笑む。

それはそれは美しく、冷たく、清廉で、何もかもを魅了し虜にする笑みだった。

軽く手を払うと声が奪われた。もう一度その手をかざしたかと思えば手足が固まる。そのまま小さな手のひらをなにもない宙空でゆっくりと握り込むと腹の中でメリメリと骨と肉が軋む。ひゅ、と小さな空気が口からもれた。

何が起きている?

くいとその手を軽く引かれた瞬間ずるりと臓物を引き出されるような感覚に堪らず腹を抱え込んでくずおれ、やっとで視線をあげれば小さなその手のひらには確かに喰らったはずの禍珠が握られていた。


「カ…、ハ…ッ」


「八雲」

「む…なんじゃ、なんじゃ主殿よ」


初めて名を呼ばれたからか尻尾があれば千切れんばかりに振っているであろう勢いで八雲が走り寄る。


「君は泰山とやらには行き来は可能なの」

「ふむ…亡者共が集まる山でな、好んで行くことはないが可能だな」

「そう。じゃあご褒美あげますからお使い頼まれてくれる」

「勿論じゃ!よいともよいとも!なんなりと申し付けてくれるが良いぞ」

「獣の氷漬けを山頂に運んでおいて」

「ふむ…、よかろう。主殿の下命とあれば否やはない」


「いい子ですね」


じわりと微笑むのにまた八雲がそわそわと喜ぶ。もっと使ってくれ、もっと頼んでくれと言わんばかりで蛇というよりは忠犬だろう。

アッシュが獣相手程ではないにせよ面白くない顔をした。


「獣、まだ僕の声が聞こえますね」


童がまた何かを言っている。

いや、唄っているのか…?

そよそよと声が届くが傷ついた意識にはその意味をなさない。ピリピリと不快でそのくせずっと聞いていたい。

瘴気を無限に生み出す珠を取り出され急激に力が入らなくなった。再生をやめた身体がぎしりと軋む。自己再生のみになったのだろう、先程までの力が入らない。


「家へお帰りなさい、そしてお前は二度とこの霊峰へは立ち入れない。どうせ相性の悪い場所だろう、アッシュがいなければ用もあるまい」


意識が凍りつく。

身体の温度が急激に下がってゆくのがわかった。


「わら、し……俺の…もの、に…」

「なんだ、おまえ僕が欲しかったの」


きょとりと振り返る。やっともどってきた小さな身体を抱き上げて、話しやすいようにかアッシュがゆっくりと獣に近づいた。


「僕は水に映る月の影です。どんなに水面をたたいてもお前達獣には触れることもできない。幻だと思って諦めなさい」



意識が途切れ、暗く沈んだ。



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