第23話 それぞれの夜【前編】

 寝室のベッドに潜り込んでみたものの、アリアの意識は冴えわたる一方だった。王都からの逃走劇で高ぶった神経、そして、予期せぬ刺客の少女――セレスの存在。それらが混ざり合い、安らかな眠りを拒絶していた。結局、アリアは音を立てないようにベッドを抜け出すと、まだ暖炉の火が揺らめく居間へと戻った。



 床に腰を下ろし、パチパチと音を立てる炎を見つめる。その赤い光は、先ほど見たセレスの瞳の奥で揺れていた絶望の色を、嫌でも思い出させた。



「ルクス……」



 アリアの呟きに応じるように、傍らの空間に淡い光球が浮かび上がる。



《はい、ご主人様。いかがなさいましたか》



「さっきの話の続き……聞かせてくれるか。マルクス公爵のこと、そして、あの子のこと」



《承知いたしました》



 ルクスは、尋問で得た情報を淡々と、しかし克明に語り始めた。社交界では温厚な芸術愛好家として知られるマルクス・フォン・ゲルハルト公爵。その仮面の下で、奴隷商と結託し、気に入った人間を「コレクション」と称して集めていること。抵抗する者は隷属魔法で心を折り、意のままに操る非道の数々。



 そして、セレスの人生。隣国の貧民街に生まれ、生きるために全てを殺し、スパイとして育てられ、たった一度の失敗でマルクス公爵の手に落ちたこと。彼女がこれまで、その手にどれほどの血を浴び、どれほどの涙を殺してきたか。



 話を聞き終えたアリアは、言葉を失っていた。社交界のパーティーで、人の良さそうな笑みを浮かべ、アリアの武勲を大げさに称賛していた公爵の顔が脳裏に浮かぶ。



「人の良さそうな仮面の下で、あんなことを……」



 背筋に冷たいものが走る。貴族社会の闇。それは知っていたつもりだった。だが、想像を遥かに超える悪意が、こんなにも身近に存在していたという事実に、吐き気すら覚えた。



 そして何より、セレスの過酷な境遇が、アリアの胸を強く締め付けた。



「少し仕事が嫌になったくらいで、全てを投げ出した私はやっぱり馬鹿だ……」



 自嘲の呟きが、暖炉の音に混じって消える。辛い仕事と窮屈な生活ばかりの日常から抜け出したいと思っていた自分。その「日常」は、セレスにとっては、死んで初めて手に入るかもしれないと願うほど、遠く、尊い「自由」そのものだったのだ。





「彼女は、私なんかよりずっと辛い思いをしてきたのに……」



 自分の計画の、あまりの身勝手さ。仲間や家族を騙し、心配をかけ、その結果として、セレスも巻き込んでしまった。アリアは、揺らめく炎の奥に、何かを見つめるように瞳を凝らした。それは、後悔や自己嫌悪だけではない。今まで感じたことのない、静かで、しかし確かな重みを持つ感情だった。



 それは、元英雄としての責任感でも、侯爵令嬢としての義務感でもない。ただ一人の人間として、深く傷ついた魂を前にして、自然と湧き上がってきた想いだった。



「……ルクス。決めたよ」



《何がお決まりに?》



「…いろいろ。とにかく……私はもう、逃げるだけじゃいられない」



 その声には、もう迷いはなかった。アリアの中で、何かが確かに変わろうとしていた。自由への逃亡計画から始まったアリアの行動は、この夜を境に、全く別の方向へ動き出す。それは、誰にも邪魔されない平穏な生活のためではなく、誰かを救うための、そして、自分の行いにけりを突けるための新たな戦いの始まりだった。







 その頃、王都の騎士団本部は、深夜とは思えぬ緊張感に包まれていた。緊急招集された幹部たちが集う対策会議室は、重苦しい沈黙と、苛立ちの匂いが充満している。



「――以上が、隔離病棟からの第一報です」



 報告官の声が、張り詰めた空気の中で虚しく響いた。内容は、誰もが耳を疑うものだった。



「アリア・フォン・ヴァレンシュタイン様の病室の金属製扉は、内側からの物理的な衝撃によって破壊されたものと断定。蝶番ごと引き剥がされており、常人、いや並の魔獣ですら不可能な所業です」



「発見した当直看護師は、錯乱したアリア様が人間離れした速度で走り去るのを目撃したと証言。現在、精神的ショックにより事情聴取が困難な状態にあります」



「現場には、アリア様のものと思われる血痕が多数残されており……」



 報告が終わるか終わらないかのうちに、フィンがテーブルを拳で叩きつけ、立ち上がった。



「直ちに全部隊に通達し、 王都の全城門を封鎖してでもアリアを見つけ出すべきです!」



 その目は怒りと焦燥に満ち、感情的に訴えかける。彼の剣幕に、室内の空気がさらに強張った。



 だが、その激昂を冷ややかに遮る声があった。作戦部に籍を置く、古参の士官の一人だ。



「フィン隊長、お気持ちは分かりますが、早計に過ぎる。王都を封鎖するなど、民にどれほどの混乱と不安を与えるか。世論や騎士団上層部は、もはや我々に同情的ではありませんぞ」



「何だと……?」



 フィンが、獣のような唸り声を上げて士官を睨みつける。しかし、男は臆することなく、侮蔑の色さえ浮かべて言葉を続けた。



「『悲劇の英雄』の捜索に、これ以上どれほどの国費を投入するのか、と。そういった声が日に日に高まっているのをご存じないか。そもそも、彼女の早すぎる出世と大貴族ヴァレンシュタイン家の威光を、快く思っていなかった者も少なくない。今回の件も、本当にヴォイドの洗脳なのか、それとも元々彼女の精神が――」



「貴様ッ!!」



 侮辱的な言葉に、フィンの怒りが爆発した。腰の剣に手をかけ、今にも士官に掴みかかろうとする。その腕を、隣に座っていたエルナが強く掴んで制止した。



「フィン、やめて」



 その声は静かだったが、エルナの瞳は、氷のように冷たい光を放ち、件の士官を射抜いていた。その視線に射すくめられ、士官はたじろぎ、口をつぐんだ。



 会議室の空気が、凍り付く。これまで水面下で燻っていた騎士団内部の亀裂が、アリアの脱走という事件をきっかけに、ついに露呈した瞬間だった。



 重苦しい沈黙を破ったのは、上座で腕を組み、静かに目を閉じていたヴァレリウス師団長だった。



「……捜索は、継続する」



 その一言に、フィンは安堵の表情を浮かべた。しかし、師団長の言葉は続く。



「だが、今後の捜索規模については、見直しを検討せざるを得ないだろう。フィン、エルナ、お前たちの気持ちは痛いほど分かる。だが、我々は騎士だ。個人の感情で動くことはできん」



 その言葉は、師団長としての苦渋の決断だった。アリアを救いたいという一個人の想いと、組織として求められる現実的な対応を求める圧力の板挟み。彼の表情には、深い疲労が刻まれていた。



会議は、明確な結論が出ないまま、上層部に報告する事実だけまとめた後、後味の悪い空気の中で解散となった。



 廊下に出たフィンは、やり場のない怒りに壁を殴りつけた。



「クソッ! あいつら、アリアのことを何も分かっていない! 彼女がどれだけこの国のために戦ってきたか……!」



「……今は、耐えるしかないわ、フィン」



エルナが、静かに彼の肩に手を置く。



「私たちにできることをするだけよ。必ず、アリアは取り戻す。……誰が何と言おうと」



 二人の間には、言葉以上の固い決意が通じ合っていた。しかし、彼らが信じる「正義」は、今や騎士団の中でさえ、ひび割れ始めていた。






 騎士団本部が混乱の渦に飲まれている頃、王都の貴族街に佇む壮麗な屋敷の一室では、マルクス・フォン・ゲルハルト公爵が、静かに夜の更けるのを楽しんでいた。手にしたクリスタルのグラスの中では、血のように赤い最高級のワインが揺らめいている。書斎を満たすのは、古書の革の匂いと、彼の満足気なため息だけだった。



 アリアに関する報告書を眺め、もうじき手に入るはずの新たなコレクションに思いを馳せる。彼にとって、人間もまた、その出自や才能、美しさによって値踏みされるべき蒐集品に過ぎなかった。



 その時、ふと、グラスを持つ彼の指が止まった。



 心の奥深く、意識の片隅で結んでいた微かな魔力の糸。それが、ぷつりと切れた。何の前触れもなく、完全に。



「……ほう」



 マルクス公爵の眉が、わずかにひそめられる。それは、彼がセレスにかけた隷属の呪い、その繋がりが断絶したことを意味していた。



「失敗したか。あるいは、何者かに無力化されたか」



 どちらにせよ、彼の計画が頓挫したことに変わりはない。完璧なはずだった手駒が、役目を果たせなかった。その事実が、彼の完璧な夜に、僅かな不協和音を響かせる。



「……役立たずめ」



 吐き捨てるように呟くと、彼はゆっくりと立ち上がり、書斎の奥に隠された金庫へと向かった。重厚な扉を開くと、中から取り出したのは、ベルベットの布に包まれた小さな黒檀の箱。



 箱の中には、手のひらに収まるほどの小瓶が鎮座していた。そして、その小瓶の中には、まるで生きているかのように明滅を繰り返す、不気味な輝きを放つ正八面体の黒い結晶が封じられていた。



 これは、セレスの心臓近くに埋め込まれた魔道具と対をなす、「ダメ押し」の切り札。隷属魔法が何らかの理由で解かれた、あるいは対象が裏切ったと判断した場合、この結晶を破壊することで、遠隔から対象の命を確実に奪うための、非情な保険だった。



 マルクス公爵は、その小瓶を、まるで道端の汚物でも見るかのような冷たい目で見下ろした。もはや、セレスという「道具」に価値はない。そして、価値のなくなった道具は、速やかに処分する。それが彼の流儀だった。



 彼は、苛立ちを隠そうともせず、小瓶ごと結晶を指先で握りしめる。

 

 パリン、と乾いた音が、静寂な書斎に響いた。



 握りつぶされたガラスの破片と結晶の粉が、彼の指の隙間かららはらはらとこぼれ落ちる。



「なかなか便利な道具だったのだがな。まあ良い、代わりはいくらでもいる」



 彼は、何事もなかったかのように手を払うと、再び席に戻り、残っていたワインを一口で飲み干した。彼の心には、失敗作を処分した後の、ほんのわずかな不快感が残っているだけだった。

彼の非道な行いが、遠く離れた山小屋で、一人の少女の運命を再び奈落へと突き落とそうとしていることなど、知る由もなかった。

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