第19話 脱出計画実行
隔離病棟の殺風景な独房。息の詰まるような静寂の中、アリア・フォン・ヴァレンシュタインと彼女の相棒ルクスによる、最後の作戦会議が秘密裏に進められていた。
秘密の鍛錬を始めて三ヶ月。アリアの体力は、ルクス指導の下での効率的なトレーニングの甲斐あって、ようやく元の半分ほどまで回復していた。かつてのキレを取り戻しつつある肉体に、アリアは確かな手応えを感じていた。
《ご主人様、これが最終確認です》
ルクスの落ち着いた声が脳内に直接響き、アリアの目の前に、彼女が囚われている医療棟の見取り図が淡い光で立体的に投影される。
《計画実行は三日後の深夜。月の光が雲に隠れ、監視が最も弱まる時刻を狙います。巡回中の看護師があなたの病室前を通過した直後、扉を破壊し脱出。彼女を最初の目撃者とすることで、我々の計画――『洗脳されし悲劇の英雄作戦』の信憑性を一気に高めます》
「目撃者は、やっぱりあのベテランの看護師さんだよね。私が洗脳にかかってることにすぐに気づいてくれそうだし」
アリアはベッドの上で体育座りをしながら、体を左右に揺らす。その瞳の奥には、これから実行する計画への拭いきれない緊張が宿っていた。
「本当に、うまくいくかな……」
思わず漏れた弱音に、ルクスは絶対の信頼を込めて応える。
《万事、お任せください。ご主人様は、ただ全力で扉を壊すことだけに集中していただければ結構です》
その言葉に、アリアはこくりと頷いた。拳を強く握りしめる。
一方その頃、王都の騎士団司令室では、アリアに関する定例報告会が重苦しい雰囲気の中で行われていた。硬質なテーブルを囲むのは、ヴァレリウス師団長、精神医療の権威であるアルフレッド博士、そしてアリアの身を最も案じるフィン、エルナ、兄のアレクシオスだ。
「アリア様の精神状態は、依然として不安定なままです」
アルフレッド博士が、分厚い資料をめくりながら静かに切り出した。
「病室にいる間は、常に何かに怯えるように呼吸を乱し、我々が洞窟での出来事について質問すると虚ろな反応しか示さない。これは、彼女の精神に打ち込まれた『楔』が強く作用している証左でしょう。彼女は今も、意識の奥底で敵と戦い続けているのです」
エルナは、分厚い扉の覗き窓から見たアリアの苦しそうな背中を思い出し、唇を強く噛みしめる。
「何か、私たちにできることはないのでしょうか。彼女は、独りで戦っているというのに…」
「クソッ……!」
フィンはやり場のない怒りに、テーブルの下で拳を強く握りしめた。自分たちが二人がかりでようやく押さえつけられるほど衰弱していた彼女が、今もなお見えない敵と戦い続けている。その事実が、彼の無力感を深く苛んだ。
アレクシオスは、ただ静かに目を伏せていた。ヴァレンシュタイン家の誇りである妹を蝕む、得体の知れない悪意への憎しみが、彼の冷静な表情の下で静かに燃え盛っていた。
彼らの心からの同情と憂慮が、アリアのついた壮大な嘘の土台を塗り固めていく。彼らがアリアを想えば想うほど、真実から遠ざかっていくことを、まだ誰も知らなかった。
そして、計画の夜が来た。
深夜の隔離病棟は、水を打ったように静まり返っていた。壁にかけられた魔力灯の光がかすかに照らす廊下は薄暗い闇に沈んでいる。
コツ、コツ、と静かな足音だけが響く。いつものように巡回していた看護師が、アリアの病室の前を通り過ぎようとした、その時だった。
ゴァンッ!!
腹の底に直接響くような、凄まじい衝撃音。尋常ではない物音に、看護師が短い悲鳴を上げて振り返る。
そこには、信じられない光景が広がっていた。アリアの病室の、あの分厚い金属製の扉が、まるで内側から巨大な槌で打ち付けられたかのように、中央から大きく歪んでいたのだ。
「ひっ……!?」
何が起きたのか理解できず、その場に立ち尽くす看護師の耳に、扉の向こうから、くぐもった呻き声と、何かが何度も叩きつけられる鈍い音が届く。
病室の中では、アリアが半泣きで拳を扉に叩きつけていた。
「うぅ……! ルクス、痛い! この扉、硬いよ! もう無理かも……!」
予想を遥かに超える扉の頑丈さに、アリアの心は折れかけていた。彼女はルクスを触媒に魔術を行使できるが、通常であれば魔術の行使には杖や宝石といった触媒が必要なため、今の彼女が魔法で扉をこじ開けるわけにはいかない。頼れるのは、ルクスが付与した身体強化のみ。骨が軋むような痛みに、思わず涙が滲む。
《ご主人様、あと一息です! 扉の蝶番の付け根、そこが構造上の弱点です! あなたの力なら必ず壊せます! 最後の一撃を!》
ルクスの冷静かつ的確な激励に、アリアは涙を振り払い、残された最後の力を振り絞って右の拳に込めた。
バキィィィン!!
看護師の目の前で、歪んでいた鉄の扉は蝶番ごと断末魔のような金属音を上げて吹き飛び、けたたましい音を立てて廊下に転がった。舞い上がる粉塵の中から、両の手の甲から真っ赤な血を滴らせたアリアが、ゆらりと姿を現す。
虚ろな瞳、よろめくようなおぼつかない足取り。その常軌を逸した光景と、人間業とは思えぬ破壊の跡に、看護師はアリアが洗脳下で暴走していることを確信し、恐怖で腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「け、警報を……!」
彼女が壁に設置された増援を呼ぶための警報機に、震える手を伸ばそうとした瞬間だった。
アリアは床を蹴った。
先ほどまでのふらふらした様子が嘘のように、まるで弾丸のような速度で廊下の闇へと駆けだしていく。警備兵がけたたましい警報音を聞いて駆けつけた時には、アリアの姿はどこにもなく、そこには破壊され尽くした扉と、床に飛び散った血痕だけが生々しく残されているだけだった。
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