TS転生女騎士、自由を求めて死んだことにしたけど
タケマル
第1話 深夜の執務室と自由への渇望
王国暦527年、春。月影が窓から差し込む深夜、王城の一室には未だ灯りが灯っていた。アリア・フォン・ヴァレンシュタインは、山と積まれた書類の塔に埋もれるようにして、羽ペンを走らせていた。
執務机の上には、騎士団の練兵計画書、国境地帯からの定期報告書、魔物討伐部隊の編成案、さらには近隣領地との水利権問題に関する調停依頼書、貴族からの陳情書、果ては王宮晩餐会の招待状までが雑然と広げられている。
(頭が回らんな…)
こめかみを軽く揉みながら、アリアはインクの染みた指先を見つめた。「閃光のアリア」としての勇名は、彼女に数多の武勲と名誉をもたらしたが、同時に際限のない職務と責任も運んできた。
史上最年少で王国騎士団の副師団長となり、戦略立案から若手騎士の育成、時には自ら先陣を切っての危険な任務。それに加え、ヴァレンシュタイン侯爵家の令嬢として、領地経営に関する書類の決裁、社交界での情報収集や派閥調整、王族主催の茶会への出席義務など、昼夜を問わず何かしらの役割を求められる日々だった。わずかな休息時間すら、次の執務や社交の準備に追われ、息をつく暇もない。
「はぁ……」
思わず漏れたため息は、静まり返った執務室に虚しく響く。窓の外には、星々が瞬くばかりで、世の喧騒は遠い。こんな時間まで起きているのは、城内でもごく一部の者たちだけだろう。
(眠りたい。ただ、全てを忘れて、泥のように眠りたい)
(こんな生活、いつまで続ければいいんだ? 貴族だの騎士だの、もう全部放り出して、日本で送っていたような、あの何でもない平凡な毎日を……いや、今はもっと自堕落な生活でいい。俺は誰にも何も期待されず、静かに……そう、静かに生きたいだけなのに)
美化された転生前の記憶が、疲労した脳裏をよぎる。コンビニ弁当と深夜アニメ、休日は昼過ぎまで惰眠を貪る。そんな、何の変哲もない、しかしアリアにとっては宝石のように輝かしい「自由」な日々。今の生活は、それとはあまりにもかけ離れていた。期待と責任という名の見えない鎖に、雁字搦めにされているようだ。
「ルクス、いるか?」
《はい、ご主人様。いつでも貴女様のお側に。……もう4日もお休みになられていません。お体に何かある前に休息を》
頭の中に、透き通るような声が響く。傍らには、淡い光を放つ小さな球体――精霊ルクスが浮遊していた。その姿は、アリア以外には認識できない。転生時についてきたこの世界で最も、アリアが信頼できる存在だ。
「ありがとう、ルクス。」
ペンを置き、アリアは深く椅子にもたれかかった。天井の豪奢な装飾が、やけに虚しく目に映る。
この息苦しさから逃れるには、どうすればいい? 領地に引きこもる? それも一時しのぎにしかならないだろう。ヴァレンシュタイン家の次女として、そして「閃光のアリア」として、世間は自分を放っておいてはくれない。結婚して家庭に入る? それも結局は、別の形の責務と期待に縛られるだけだ。ましてや政略の道具にされるのは御免だ。それに、元男のアリアは男との結婚など考えられなかった。過去にも、何度も現状から逃れようと試みた。騎士学校に入学したのだってその一つだった。しかし、その度に周囲の期待や家の立場が、見えない壁となってアリアの前に立ちはだかったのだ。
「きっと、俺が死んで消えるまで逃げられないんだろうな…」
その時、まるで天啓のように、ひとつの考えが疲弊しきったアリアの脳裏を貫いた。あまりにも突飛で、あまりにも大胆な考え。しかし、今の彼女にとっては、長年探し求めていた、唯一の実行可能な希望の光に思えた。
(そうだ……「私」という存在が、この世から完全に消えてしまえばいいんだ!)
ゆっくりと顔を上げたアリアの瞳には、先ほどまでの疲労の色とは異なる、ある種の狂気を孕んだような強い光が宿っていた。それは、絶望の淵で見つけた一点の光明に対する、執念にも似た輝きだった。
《ご主人様……? その表情、何かよくないことをお考えなのでは?》
ルクスの声に、わずかな警戒の色が混じる。
「ああ、その通りだ、ルクス」アリアは、抑えきれない笑みを浮かべながら言った。
「最高のアイデアを思いついた。俺を……『死んだこと』にするんだ」
「そうすれば、アリア・フォン・ヴァレンシュタインも、『閃光のアリア』も、この世界から綺麗さっぱりいなくなる。そうなれば、もう誰も私に何も期待しないし、何も強制しない。本当の意味で、誰にも知られず、何のしがらみもなく、自由に生きられる!」
椅子をはじくように立ち上がり、笑みをこぼす。
「今までなぜ思いつかなかったんだ!」
言葉にしたことで、それは確固たる計画へと変わっていく。長年心の奥底で燻っていた自由への渇望が、一気に燃え上がったのだ。この計画ならば、これまでの自分を縛り付けてきた全てのしがらみから解放される。他のいかなる手段よりも、確実かつ永続的に。
ルクスはしばし沈黙し、アリアの言葉を吟味するかのように光を明滅させた。やがて、いつもの落ち着いた、しかしどこか楽しげな響きを帯びた声で答えた。
《なるほど……それは実に壮大で、かつご主人様らしい、型破りなご計画ですね。このルクス、ご主人様のその輝かしい未来のため、全力でお手伝いさせていただきますとも》
「ああ、頼りにしている、相棒。きっと、これまで以上に立ち回りが重要になるぞ」
常人離れした身体能力に、騎士団一の剣術。これらは、彼女が「閃光のアリア」たる所以であったが、それは彼女の能力の一端に過ぎない。転生時にチート能力を授かっていたアリアは、全系統への魔力適性を持ち、内に秘める魔力量も桁違い。さらに、精霊ルクスという相棒もついている。計画実行前にこれまで隠してきた能力が露見すれば、『死』の偽装のハードルは跳ね上がる、自由な生活を得ることはできないだろう。
アリアは窓辺に歩み寄り、遠く王都の夜景を見下ろした。眼下に広がる無数の灯りは、まるで自分を縛り付ける無数の視線のようだ。
「ふふっ……見てろよ、世界。このアリア・フォン・ヴァレンシュタインは、お前たちの手から必ず逃れてみせる。……全ては、誰にも邪魔されない、静かで自由な生活のために」
そう、この計画を思いついた今となっては、これまでの苦労も、ばれたら厄介そうと思い能力を隠し通してきたことも、全てがこの壮大な「自由への逃亡計画」の布石だったのだと、妙な納得感が湧いてくる。まるで、この瞬間のために、全てが準備されていたかのように。
《万事、お任せください、ご主人様。まずは何から始めましょうか?》
深夜の執務室に、アリアの静かな、それでいて確かにうねりを挙げる自由への渇望が満ちていく。自由へのカウントダウンは、今、この瞬間から始まったのだ。
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