第19話

「ちょ……っと!」


 シャロンは青い実を急ぎ自分の巾着の中にしまい入れた。かけた緊縛の文言は、決して易しいものではない。けれど、ヘラクレスは力だけでそれを打ち破ろうとした。

 大きな手で改めて鎖を掴んで、身体から引き剥がそうとする。さっきまでびくともしなかった文言の鎖は、その握力で潰れて軋み始めた。


 気付けば緊縛の力とヘラクレスの満身の力が同位になり、シャロンは舌打ちした。魔法陣の中にいるにもかかわらず、明らかにヘラクレスの力の絶対量が増えている。もう一度文言をかけ直さなくてはと、シャロンが指で宙を切ろうとすると、その手をヘラクレスが掴んだ。

「捕まえ……た!」

 

 驚くシャロンが振り払おうとしても、鎖を引きちぎった太い腕はびくともしない。むしろ、逆にシャロンを引き寄せた。

「……っ!」

 シャロンは、引き寄せられた強い力に踏鞴たたらを踏んだ。と同時に魔法が解けてしまい、残っていた文言の鎖がばらばらになって光と共に消えていく。


「残念、だったな」

 ヘラクレスは消えた鎖を尻目に言うと、おもむろにシャロンの細い首を掴んだ。形勢はあっという間に逆転し、今度は太い指で圧迫されたシャロンの愁眉が歪む。

 急ぎ魔法陣の方を強化しようと試みても、この状態で文言を唱える余裕などなく、苦しさに喘ぐことしか出来ない。下手をしたら、このまま絞め殺される可能性もあった。

 

「叛逆には、罰を与えねば」

 

 ヘラクレスは、空いた手で自分の胸元を探って衣服の中から何かを取り出す。手にあるのは、見慣れぬ小さな環だった。金色ではあるが年代物のようで、その光は鈍くくすんでいる。

 金環で一体何をするつもりなのか、ヘラクレスは勝ち誇った顔でそれをシャロンの首に当てた。途端に金環が広がり首に巻きついたかと思うと、掴まれていた強い力が抜けて呼吸が楽になる。だが、そのまま全身からも力が抜けるのを感じたシャロンは、身の危険を感じて咄嗟にヘラクレスを突き飛ばした。


「なっ……」


 嵌められた金の環を取り外そうとしても、張り付いてしまったかのように肌から離れない。そのうち、シャロンは力の入らなくなった足からくずおれて、舟の上にへたり込んだ。

「な……に、これ……?」

 腕がまるで鉛のように重く感じる。必死に首の辺りをまさぐることすら次第に疲れて、身体も起こせない。生まれて初めての感覚に、シャロンは戸惑いを隠せなかった。

 

「それは金の魔環。お前のような冥界の者に嵌めれば、たちまち力を失ってしまう謂わば首輪だ。ケルベロスの捕獲に使う予定だったが、まあいい。今はお前がしていろ」

 形勢をたてなおしたヘラクレスが、へたったシャロンに近づく。ヘラクレスの言う通り、身体中の力という力がすべて抜けてしまったように、指先にも力が入らない。もちろん、魔力の方もさっぱりだった。


 シャロンの魔力でその力を得ていた魔法陣は、次第に光も薄れて消えていく。目の前で解けていく魔法陣を茫然と見守るシャロンは、何度も繰り返しいつものように魔力を呼び起こしてみるが上手くいかない。それどころか、やればやるほど力は薄れ、言い得ぬ倦怠感に蝕まれていった。

 

「気も力も強いのでは敵わんが、こうなってしまえばどうということはない。張合いがないのは少々つまらんが、お前みたいな女はこれくらいで丁度いいのだろう。絶望の顔も悪くない。ペルセフォネと共にお前も連れて帰ることにしよう」

「ペ……ルセフォネ様?」

 敬愛するペルセフォネの名に、シャロンは顔を上げる。ヘラクレスは何気ない一言に反応したシャロンを面白がり、一歩近づいた。


「ペルセフォネ様、か。冥界の者に慕われているとは意外だな」

 その嫌味たらしい口から、ペルセフォネの名前が出ることすら汚らわしいと思いながらも、シャロンは反論を控えて口を噤んだ。しかし厳しい表情を見せたところで、ヘラクレスは構わず頬へ手を伸ばす。シャロンは咄嗟に顔を背けた。

「ペルセフォネと一緒では不服か?」

「あんた……いったい何をしに来たの?」

「そう急くな。せっかく二人きりなのだから」

 

 ヘラクレスはのらりくらりと話を逸らして、舟の傍らに腰を下ろした。

 なぜペルセフォネの名前が出てくるのか、朦朧とした意識の中ではよくわからない。ただ、何かを酷く間違えているような気がして、胸騒ぎが止まらなくなる。

 

「ケルベロスに興味があるのは事実だ。従順であるならば、持ち帰っても良いと思っている。だが、それよりもペルセフォネだ。あれは、親父の反対を押し切り冥界に堕ちた馬鹿な女だが、それだけに助け出してやれば親父も喜び、俺の株が上がるというもの」

「……意味がわからないわ。あんたはペルセフォネ様を連れ戻しに来たの?」

「そうだ。しかし、ハーデスは許さんだろう。それでケルベロスの名を出したまでだ」

「なんてこと……。冥界の王妃を拐おうだなんて」

「王妃、ねえ」

 呆れた口調で小馬鹿にしたヘラクレスは、舟の縁から腕を出して大きくもたれかかる。


「私に言わせてみれば、せっかく王家に生まれついたのに聞いて呆れるあの女の愚かさは、腹違いとはいえ兄弟とも思いたくないものだがな。知っているか? 私が言うのもなんだが、天界の王族の力は絶大だ。ゼウスという絶対神の庇護の下に、望めば大概のものが思い通りになる。……当然ペルセフォネだって俺と同じく王の子供なのだから、そのまま天界にいれば悠々自適な生活が約束されていたのに。大体、親父が冥界の者との結婚を本当に許すはずがないのだ。案の定、聞けば駆け落ち同然だったと言うではないか」

 

 唐突に語りだしたヘラクレスから、シャロンは目を逸らした。ヘラクレスはそれを満足そうに眺め、ゆっくりと身体を起こす。そして、したり顔で顎に手を充てた。

「だが、考えようによっては賢いと取れなくもない。結果的に冥界の王ハーデスの妻の座についたしたたかさは見事だ。ゼウスの子とは言え、女であればそれこそ春の女神くらいが関の山、後の王座に就くことはできないからな。しかも、ハーデスはゼウスの兄。その王妃になるとは良く考えたものだ。これでは親父も文句を言い辛い」


 シャロンは、言い得ぬ怒りが腹の底から渦巻いて昇ってくるのを感じていた。当たってもいない憶測だけで、冥王の妃を斯様かように貶めるとは。これほど無礼な者は、今までに見たことがない。

「あんた……、私だけならいざ知らず、冥界の王ハーデス様とその妃ペルセフォネ様を愚弄するなど……、罪深いにも程があるわよ」

「愚弄など。見上げたものだと褒めている。ただ、元王族の尊厳プライドが邪魔をして子は成せないのが笑えるが」

「いい加減になさいよ」

 

 怒りを抑えてシャロンは言ったが、ヘラクレスは横柄な態度を崩さない。と、舟が一度大きく揺れた。

「……なんだ?」

 眉を顰めてヘラクレスは水面を見る。

 いつのまにか舟を取り囲むように勢いの良い水の流れが出来ていて、遠くはすでに波が立って飛沫を上げていた。大きなうねりは水面を削り取りながら近づいて、船縁を乱暴になぞっていく。

「さっきまで、あんなに穏やかだったのに」

 この隙に、シャロンはヘラクレスから距離を取る。

 

「悪いけど、もっと荒れるわよ。そうね、ものの数分でこの舟を沈めるわ」

「沈める? お前になにが出来る、魔力はもうないはずだぞ」

「魔力がないからよ。アケローンは私の力で押さえているのだから」

 アケローンはまるで生き物のように静かに蠢いていた。舟はその奔流によって、舞落ちる木の葉が如く大きく左右に揺れ始める。ヘラクレスは慌てて零れたあの実の中から潰れていないものを拾い集め、布袋に戻した。

 

「岸はどっちだ?」

「馬鹿ね。教えるわけないでしょう」

 すると、ヘラクレスはシャロンの手から乱暴に櫂を奪い取って舳先に立ち、がむしゃらに漕ぎ始めた。

「どんなに漕いでも、タルタロスにはつかないわ」

「うるさい。なに、楽しみが少し伸びただけだ。安心しろ」

 大揺れの船内で立つことも出来ないシャロンは、ヘラクレスの後ろ姿を睨みつける。睨みつけることしかできない自分に苛立ち、唇を噛んだ。地獄の前庭で立てた早計な謀略は、いまや不首尾に終わっていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る