第9話
その頃、遠くで蠢く影を見守っていたシャロンは、不意に消えた気配に気を揉んでいた。あんなに鳴り響いていた鋼の音も、今はぴたりと止んでいる。
「ケルベロス……?」
最近の定位置に姿が見えないから、暴れていたのはケルベロスに間違いない。けれど、珍客が来たのなら、いつもはすぐに追い払って面倒臭そうに胡座をかいているのに、今日はやけに時間がかかっているのが気になる。なので、定刻を過ぎたが浅瀬で舟を出したまま待ち続けた。
もし、ケルベロスになにかあったのなら、次に狙われるのは自分だ。そうなる前にアケローンを早々に渡ってこの場から逃げる手もあるが、門番に危害を加えるような奴がそう簡単に引き下がるとも思えない。下手にタルタロスで待ち構えられて、自分が前庭から死者を連れてきたところを襲われたりしたら、死者に危険が及ぶ可能性だってある。
「まったく……。朝っぱらから騒々しいのはどっちよ」
冥界の王から直々に渡守としてアケローンを司ることを許され、死者を無事にタルタロスへと送る任務を与えられている以上、シャロンが安易にこの場を離れることは出来なかった。まさかケルベロスがやられることはないと思うが、彼は人型になってまだ浅い。その実力は未知であり、不安は残る。
手伝うべきか――。少し悩んで、シャロンは櫂を水面から引き上げる。ただ、余計な手出しをして後々喚かれるのも面倒だと悩んでいると、がらんと大きな音がして、なにかが勢い良く弧を描きながら地を這い転がってきた。
土埃を立てながら、アケローンの手前ぎりぎりで止まったのは柄の折れた三叉の槍だった。所々血濡れているのが気にかかるが、これはケルベロスの持ち物ではない。シャロンはそれで少しほっとした。
「本当、使い物になんねえな。この身体は」
まもなく剣についた悪魔の血を振り払いながら、ケルベロスがひょっこり現れた。疲れた様子こそあるものの、愚痴の調子はいつも通りだ。
「お疲れ様。ずいぶんかかったのね」
「ああ。なかなかしつこかった」
ケルベロスは転がった三叉の槍のところまでやってくると、足先を器用に使ってそれを拾い上げた。そして、おもむろにアケローンの川へ放り投げる。槍は綺麗な放物線を描き、川の中へ水飛沫を上げて落ちた。
「ちょっと……、やめてよね」
舟の上で見守っていたシャロンは、近くで広がる水輪を見ながらケルベロスの行動を一応諌める。
「誰だったの?」
「見たことない悪魔。ちょっと面倒臭そうな奴だった」
「ふうん。仕留めたの?」
「いや、逃げた。でも、深傷を負ってるから血の匂いに敏感な奴らに喰われるだろ。じゃなくても、きっと行き
迷いの森の方を眺めたケルベロスは、そういえば、とシャロンの小舟を顎で指す。
「その舟、いったい何で出来てんだ? なんで光ってる?」
「ああ、これ? 魔獣の皮を、死者の魂で縫いつけてるの」
「……魔獣の、皮?」
眉を顰めたケルベロスを、シャロンは一笑に付した。
「光の原因は死者の魂よ。大丈夫、繋ぐ皮も種類があるから、あんたのは必要ないわ」
「当り前だ」
ケルベロスはシャロンをねめつけた。
「っていうか、お前まだこんな所にいていいのかよ。狼煙はとっくに上がってるぞ」
「やあね。人が折角心配してあげたというのに、その言い草」
ケルベロスの言葉に、シャロンは川面で待っていたことを後悔する。すると、剣を鞘にしまったケルベロスが、これ見よがしに舌を出した。
「心配? 誰の心配したんだよ。必要ねえよ、ばーか」
しかし、言いながら悪魔の返り血がついた手で鼻をこすりあげ、猛烈にえづく。
「臭っさ!!」
「馬鹿はどっちよ」
余程酷い匂いなのか、すぐさまアケローンに走り寄って顔を洗うケルベロスを、シャロンは小舟の上で呆れる。だから、ばしゃばしゃと派手に上がった水飛沫に気を取られて、一瞬の殺気に気付かなかった。
不意に疾風が横切り、ケルベロスがはっと顔を上げて背後を振り返る。しかし、なにをする間もなく惨事は起こる。水面を蹴って進むそれは、たちどころにシャロンに襲いかかり、黒衣もろとも鋭い爪で斜めに身体を切り裂いた。
「アケローンを渡らせろ!!」
血走った眼で怒鳴りつけた赤肌の悪魔は、一撃ののちに両肩に掴みかかってきた。赤花のような血飛沫を胸から迸らせたシャロンは、瞬時に走る焼けるような痛みで意識が飛びそうになるのを懸命に堪える。そして、気丈にも倒れることなく小舟の上に踏みとどまった。
「……っ、この……っ!」
「シャロン!」
ぼたぼたと小舟の上に零れ落ちる大量の血液を見て、ケルベロスがぞわりとするほどの殺気を立て、収めたばかりの剣を抜く。だが、
「来ないで!!」
それよりももっと緊迫した声で、シャロンは叫んだ。
「離れてなさい」
びり、と空間に亀裂が入ったかと思うほどの牽制に、さすがのケルベロスもぴたりと動きを止める。シャロンは、その窺うようなひたむきな眼差しに目をやると、小さく首を振ってケルベロスを制した。
「水から上がって。早く」
「でも」
「いいから。……お願いよ」
ゆらゆらと大きく揺れた小舟が広げる水輪で、自身の影が歪む。ともすれば足元から崩れ落ちそうな激痛に、シャロンは手にしていた櫂を杖代わりにしてなんとか踏みとどまるのが精一杯だった。
やがて、躊躇いながらも言われた通りにケルベロスがその場から離れるのを認め、やっと悪魔の方を向く。額から生える二本の巻角は、鬼岩城の古参の族か――そういえば、最近いい噂を聞かない。
「早く……、早く連れていけ」
凄む悪魔の胸には、まだ新しい十字傷があった。深い傷に肉は捲れ、腹帯が湿り気を帯びて血に染まっている。言葉には焦りが見え、シャロンを掴む渾身の力は骨がみしみしと軋む程凄まじい。
「残念ながら、復路は承ってないの」
シャロンは言った。裂かれた傷が、痺れるように痛い。胸から流れた血液は、だらだらとふくらはぎを伝って生温かく踝へと滑り落ちる。心臓の拍動に合わせて全身が鞭打たれるような感覚は久しぶりで、これが長く続くと良くない。
シャロンの意識は朦朧としていた。しかし、返り血を浴びた相手の十字傷がじわじわと爛れて変色したのを見て、突如覚める。
「馬鹿ねえ」
思わず笑みが溢れた。すると、愚かだと言われた悪魔が顔を顰める。
「なにが……おかし……い?」
滴り落ちて作られた足元の血溜まりがぽこぽこと気泡を上げて、膨らみが弾けるたび白い噴霧を立てる。異変に気付いた悪魔は、程なくしてその手をシャロンから離した。
赤い肌は返り血を受けたところから青黒い斑点が広がり、次第に侵されていった。悪魔は慌てて変色した肌に触れるが、瞬間、その個所がどろりと崩れて落ちる。
信じられないような表情を一瞬見せたものの、もう遅い。頬に触れれば頬が、胸に触れれば胸が崩れ、そのうち確かめる指先が無くなる。もはや表情を作ることは叶わず、襲う苦しみと痛みにもがくうちに今度は触れずとも身体が崩れ始め、内臓が露出し、重力に負けて落ちる。その様は、物が腐る過程に似ていた。
「う……あ……!!」
悪魔は自分に起こった異変を把握できないまま、ひたすら呻いて身体を崩し続けた。恐怖に慄く叫びすら上げられずに、やがて皮一枚で繋がっていた頭がどさりと落ちて小舟が揺れる。たくましかった身体は頭を皮切りに次々と垂れ落ちて、その
汚れた舟底が溶け始め、穴が開く。ぶくぶくと泡を立てながら、汚れた足元を洗うように増える水かさを見つめ、シャロンはため息をついた。
「ったく……」
赤黒い色が、水に溶けていく。渦を作り、悪魔の成れの果てを巻き込んでさらってゆく。底が完全に抜けて浅瀬の砂利に足がつくと、脆く崩れた舟の切れ端が川に流された。淡い光が遠のくと共に、アケローンがほんのり発光する。取り残されたシャロンは、その様子をただ眺めた。
「おい……」
立ち尽くすシャロンの袖からは、今もまだぽたぽたと絶え間なく血液が滴り落ちていた。見かねたケルベロスが声をかけるが、シャロンはアケローンの川の流れを見つめるばかりで振り返りもしない。
壊れてしまった小舟のすべてがアケローンに完全に消えてしまったのを見届けてから、やっと岸に上がった。
「大丈夫か? お前、酷い傷だぞ」
ふらふらとおぼつかない足元と、大きな傷を心配したケルベロスが思わず手を差し出すが、シャロンは首を横に振って言葉なく拒否する。そして、白い煙を上げて大地を溶かす血の跡を引き摺りながら近くの岩場まで歩き、そこで力尽きて身体を横たえた。
「おい、シャロン?」
地を濡らす染みが止まることなくじわりと広がる。浅く小さな呼吸が無意識のうちに繰り返され、余計な意識を使いたくなくて目を閉じた。
しかし、そばで狼狽えるケルベロスの挙動は見ずともわかるくらいに落ち着きがなく、シャロンはふと薄目を開ける。と、ケルベロスと目が合った。
「お前、大丈夫なのか? とりあえず血は止めた方が……」
「……駄目よ、触らないで。あんたもああなりたいの?」
ああなりたい、というのが先程の悪魔を指していることを理解したらしいケルベロスは、いつになく真剣に聞き入れて、出した手を引っ込める。
「たまにいるのよ、ああいう狂気染みた奴。こういう時の為にあんたがいるのに、なんであたしが怪我しなきゃいけないのよ」
傷に手を当てたシャロンは、大地を溶かす煙の中で息絶え絶えにいつも通りの悪態をついた。シャロンにしてみれば、それは怪我をしたものの大丈夫だということに他ならなかったのだが、ケルベロスは妙に神妙な顔をして、傍に正座する。
「――ごめん」
ケルベロスは一言シャロンに向かってそう言うと、深く頭を下げた。まさか謝られるとは思っていなかったシャロンは、あまりにしおらしい態度のケルベロスに目を丸くする。そして、吹き出した。
「あっはっは、やだ、ちょっと。あんたが謝るなんて、私、本当に死ぬんじゃない?」
「……お前。俺が生まれて初めて謝ってやったのに、ふざけんな!」
「わかってるわよ。……あー、おかしい。笑わせないでよ、辛いんだから」
笑いながら時折来る痛みに眉をひそめたシャロンは、心配顔のケルベロスを見上げた。
「心配しなくても、死にやしないわよ。それより、私の血には絶対触らないで……毒だから溶けるわよ。あと、今日は仕事できないから、ハーデス様によろしく言っといて」
この言いつけにも、ケルベロスは素直に頷く。だから、シャロンは満足して微笑んだ。
「……じゃ、寝るから。起こさないでね」
「ね、寝るってなんだよ、大丈夫なのかよ?」
「心配すんなって言ったでしょ。……回復魔法かけるの。だからしばらくほっといて」
柄にもなく、言ってもまだ心配そうにしているケルベロスがおかしくて、シャロンはまた笑ってしまう。ケルベロスはそれが気に入らなくて不貞腐れるのだが、それでもその場を離れない。
「忠犬ね」
そう言って目を閉じたシャロンは、言った通り治癒の文言を唱え始めた。優しく唱えられた文言が終わると、傷に当てた掌が見た目にも柔らかな白い光を帯びていく。
「……すげえ」
ケルベロスが見守る中、シャロンがゆっくりと傷に触れると、大きく開いていた傷口がまるでなかったように綺麗に閉じていく。そうやって長い時間をかけてすべての傷に触れたシャロンは、そのあと言った通りに、すう、と眠りに落ちた。
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