第4話
一度も後ろを振り返ることなくアケローンの彼方へと消えていくシャロンを見送り、ハーデスは未練がましく『あーあ』と子どものように零して肩を落とした。弱い月明かりのもとに剣はひっそりと転がったまま、今では空気も寒々しい。
「ほら、ケルベロス。今度からはこれがお前の得物だよ。竜尾の剣、とでも名付けようか」
聞こえたハーデスの声に顔を上げると、剣が投げ渡される。続けざまに、何処かに転がってしまった松明を探して見つけ出し、火を灯した。
青緑の刀身は、失くした竜尾の色と良く似ていた。剣の柄と護拳の部分は、竜の鱗のように見えなくもない。宙でそれを受け取ったケルベロスは、聞こえよがしに舌打ちをする。
「どういうつもりだよ、こんな姿にしやがって。聞いてねえぞ。大体、俺はここの門番を引き受けたわけじゃ……」
「でも、適任だと思うんだよ。ここにケルベロスがいてくれると助かるんだ」
「俺の意志は無視か」
そうは言いつつも、すでに人型にされてしまったケルベロスは反抗を諦めてどっかりと大地の上に腰を下ろす。今までだってハーデスの言いつけはいつも唐突だったし、それに本気で異を唱えるつもりもない。だけど、今回の泣きたくなる程の強引な措置には、なかなか納得できなかった。
ハーデスにしてみれば同族に変えただけ、大したことないのかもしれないが、自分にとってこれは異形に他ならない。体形は元より、手足の動きにものの見え方や聞こえ方もまるっきり違う。
重心が変わったせいで、基本姿勢でいわゆる手、というものが自由なことにまず慣れない。思わず前足をつきそうになるが、それでは身体を動かすのに不便で、視界が狭まる。結局後ろ足で立つのが一番楽だが、二本足はなんだかふらふらして歩き辛かった。
不便なのはそれだけじゃない。なんだかあまり匂いが嗅ぎ取れなくなっている気がする。これでは、どの方向に誰がいるのか判りづらい。耳もまた然りだ。先ほどまで明瞭に聞こえていたタルタロスの底から届く声や呻きもさっぱりだった。
しかし、何より困るのは声だ。思ったことが唸り声でなく言葉となって伝わる違和感は酷いものだった。それでハーデスと簡単に意思疎通できてしまうが故に、思ったままを口に出すことが
魔族というものは、いつもこうやって気を使いながら喋っているのだろうか。ケルベロスは、見慣れぬ指を眺めてはため息をついた。
「ごめんね、ケルベロス。姿を変えたのはお前にとって本当に苦痛だと思う。それでも、今回ばかりはどうしてもここにいて欲しいんだよ」
ハーデスがここまで言うのは珍しい。いつもより格段に優しい声色で窺うのを、ケルベロスは黙って見上げた。
「色々と理由はあるのだけれど、使役札の件がやはり気にかかるんだ。冥界と天界の間にゼウスと私が知らない往来があるのはいけない。だから、万が一のために冥界の入り口であるタルタロスにお前を置きたいんだよ」
「だからって、人の形にすることないだろう」
「うん……。でもやっぱりシャロンの言うように死者が怯えても困るし、タルタロスの入り口は狭いだろう。あの巨体では持て余してしまうかなと思ったんだ。もちろん、無闇に人を襲った罰もあるけれど」
ケルベロスは片眉を上げる。ハーデスは、ああでもね、と断りを入れた。
「自分でも、強引だと分かっているんだ。優しいケルベロスに甘える形になってしまって本当に申し訳ないと思っているよ。それに、本当に感謝してる」
「……調子のいい」
妙な会話の算段で巧く上げ足を取られたケルベロスはそっぽを向いた。この調子で
「それで、俺はなにをするんだ?」
話題を変えるためにもそう聞くと、ハーデスは遠慮がちに頷く。
「まずは身体を慣らすといい。そうしたら、死者がタルタロスへ降りるのを見届けておくれ。不審な者がいれば捕らえてほしい」
正直なところ、ハーデスの答えは拍子抜けだった。たったそれだけのことなのになぜ門番にならなければならないのか喉まで出掛かったが、すんでのところでケルベロスは堪える。藪蛇になっても困るし、それで済むなら余計な事は言わない方が良いと打算が働いた。
「それだけで良いのか?」
「うん。あとは、ここから逃げ出す者を捕らえてくれたら十分だよ」
「逃げるって、誰がどこに?」
「シャロンに連れてこられた死者が、稀にタルタロスから出てくることもあるし、冥界の者が下界を目指してアケローンを渡ろうとすることもある。多くは川でそのまま溺れてしまうけど、万が一シャロンと
ケルベロスは聞いて鼻で笑う。あの女が苦労していると聞くと、少し小気味良かった。
「なんであんな女が渡守なんかやってるんだ? 厭味たらしいし、怒りっぽくて向いてないだろ」
「そんなことないよ、シャロンはとても優秀な魔女だよ。毒婦と言って、冥界中の毒を身体に持っている唯一の魔女でもあるし。お前が死にかけたのも、嘘じゃないよ」
ケルベロスは眉間に皺を寄せた。ハーデスはそれを見て、人差しを立てる。
「ああ、それと、二度目の狼煙の後には必ずシャロンと二人で王城まで日報に来ること。いいね?」
「……はあ?」
「これはシャロンの日課でもあるんだけど、明日からは二人でおいで。それと、わからないことがあればシャロンに聞くと良い。彼女はもう一千年はここで働いてくれているから」
「一千年?」
その歳月の長さに圧倒されていると、ハーデスはちらりと空を見上げた。来た時は白んでばかりだったこの場所も、今や鍋蓋が開いたように高く抜けている。赤月が沈んだ今時分は、タルタロスにあるディーテの市の炎の明かりがぼんやりと穴から漏れていた。
「じゃあ、シャロンによろしくね」
ケルベロスが呆けている間に、ハーデスはそそくさと移動魔法を口にする。途端に足元に湧いた煙は、見る間にその身体を覆った。
「お、おい、待てって!」
「大丈夫、またすぐに様子を見に来るからね」
「そうじゃねえ!」
慌ててハーデスを引き留めようと手を伸ばすが、腕はむなしく宙を掻く。残された煙が漂う空間に、ケルベロスは愚痴を吐いた。
「……本当に置いていきやがった」
ケルベロスは、脱力してその場に倒れ込んだ。短時間の内に色んなことが起こり、精神的な疲れもあってハーデスのあとを追う気にもなれない。ただ、残された松明は、わざわざ起き上がってから腹いせに遠くへ投げる。火は風に消えて、タルタロスの闇が濃くなった。
前はもっと空が近かった。五十の顔はいったいどこへ行ったのか、視界はひとつに限られて異常に狭く感じるし、鼻だってあまり効かない。草いきれの匂い、王城に漂う蝋燭の匂い、食事の匂い、ここにはそんなものはなにひとつなくて、代わりに埃臭い。
よりによって、人なんて――。以前の爪のひとつ分にも満たない小さな手を力なく握り、なくなった尻尾を憂う。そういえば、蛇たちはどうなったんだろうと首のあたりに触れて、ようやく首輪がかかっていることに気が付いた。
「ハーデスの野郎……」
ケルベロスは天を仰ぎ、今日何度目か知れぬため息をついた。
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