ケルベロスと魔女
織音めぐ
ケルベロスとタルタロス
第1話
冥界の闇は濃い。
空に浮かぶ赤月は名の通り血のように赤く、どんなに待っても夜は明けない。鳴き飛ぶ鴉と、群れを為す翼竜が舞うのは薄赤い月明りに藍を混ぜた濃紫の空で、見渡す限りの暗い大地には、腐臭のする沼や囁く草花が生い茂る原野が点々としていた。
なかでもひときわ目を惹くのは業火の焔が揺らめく高台で、赤々とした炎は休みなく冥界の天を焼く。その向こうには、踏み入る者を惑わす木々がひしめく迷いの森が広がり、暴風の大地へ繋がった。
波打つ山々の中でも一番に高い煉獄山はその内面でぐらぐらと灼熱の溶岩をたぎらせ、地の底から揺らすような轟音を響かせる。その大地の唸りが沸点を迎えると、鼓動を打つ火口から特有の青い潮流が同色の炎とともに溢れ出した。
青の炎は燃えながら山肌を流れ、外気に晒されてなお銀色に鈍く光りながら地に伸びる。その様子はまるで蠢く触手のようで、跡に生きるものは何もない。やがて冥界を囲う嘆きの川アケローンにまで辿り着くと、触手は天まで届く真っ白な蒸気の狼煙を上げる。回数は時間を空けて日に二度ばかり。毎日決まった時刻に上がるそれは、冥界に生きる民が時を知る術となっていた。
この広大な大地を治めるのは、冥界の王ハーデスである。
彼が冥界の統治にあたり、様々な魔族や魔獣を統べることになったのはもうだいぶ昔のことだった。弟のゼウスとポセイドンがそれぞれ天界と海界を治め、ハーデスの冥界と併せてこれを三界、治める者を総じて三界神と呼ぶ。ハーデスの直轄下に置く組織は冥府と呼ばれ、多くの魔族や魔獣が属した。彼らの業務は部族間の紛争や土地管理、天界や海界との連絡など多岐に渡るが、その主な役割はタルタロスにおける死者の管理である。
タルタロスとは、冥界の大地に開いた大穴だ。便宜上その周囲一帯を指す言葉でもあるが、その本質は〈地獄〉である。
安易に下方を覗けぬほど深い穴は漏斗状で、道はひとつ渦を巻いて下層に繋がる。階層は第一圏から数えて最奥九圏まで区分けされ、五圏と六圏の間にはディーテの市と呼ばれる燃え盛る城門が配置されていた。
そこから下は堕落した天使と重罪人のみが堕とされる深淵で、各圏では審判が下った罪人が責め苦を味わう。過去に牢獄として使われた地は草木も生えず
「相変わらずだね、ここは」
閑散とする辺りを見回して、ハーデスは手の松明を高く掲げた。
『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』
そう刻まれた巨大な青銅の門は、死者にとって苛酷な旅路のはじまりである。罪深き者ほど道の奥深くに送られて、這い上がることは叶わない。
ハーデスは中を覗いてから、ちょうど良い岩場の窪みに松明を挿した。タルタロスの入口があるこの辺りは、常に靄で白んで月明かりが届かない。松明の明かりはそんな靄に乱反射して、ぼんやりと明るく辺りを包んだ。
「ケルベロス」
ハーデスの声が響き、
「ケルベロス。今日からここがお前の住処だよ」
途端に、乾いた大地を巨大な何かが踏みしめた。地を鳴らすと同時に風が巻き起こって銀髪が舞い上がり、すぐそばに突然巨壁が立ったような感覚がある。もうひとたび動けば大地が震え、振動が谷間を伝う。そして、返事の代わりにあげた禍々しい唸り声が、追い打ちをかけるようにタルタロスに響いた。
「……不服だって?」
獰猛な声に、ハーデスは優しく応える。振動に落下してしまった松明を拾い上げて元の位置に戻しがてら、ケルベロスを見上げるその表情は慈愛に満ちていた。
「まあ確かにね、ここで暮らすのは大変だと思うよ。でも、住めば都と言うとおり、お前みたいなやんちゃな犬には、意外に住みやすい場所かもしれない。それに、相方となるアケローンの渡守シャロンはとても優秀な魔女でね。怒ると怖いけど普段は優しいから、ケルベロスもきっと気に入るよ」
ハーデスが〈やんちゃな犬〉と笑って見上げた先には、黒い毛並が美しい大きな魔獣がいた。
成人として月並みな身長のハーデスを優に見下ろせる巨体が山のようなら、揃えた前足は言わば巨岩である。普通ならばひとつの体躯に対してひとつのはずの首は五十に分かれ、そのどれもが靄の中でめいめい唸ったり、動いたりしている。また、五十の首が集約する首周りには、何匹もの蛇が
すらりと伸びた尾は翼竜の滑らかな緑の鱗に覆われて、足先に伸びた爪は鎌のように鋭い。しかし、明らかな魔獣であるケルベロスが犬と呼ばれる所以――それはただ、いくつもある顔が犬のそれだからに過ぎなかった。
「そんな顔しないでよ」
分かれた首がそれぞれに辺りを窺っては恨めしそうな目で自分を見ているのに気付いて、ハーデスは仕方なさそうになだめた。
「シャロンにタルタロスの守りまで頼むわけにはいかないんだよ。この間の件は、お前も噂に聞いているだろう? ……大丈夫。不眠の特性を持つケルベロスにとってこの仕事は簡単さ、ずっと門を見ていればいいのだから。脱走者に気をつけて、冥界の規律を破る者がいれば、番人としてその刃を向けて構わない。暗がりが心配なら、もっと明かりを灯してあげるよ」
そう言って、ハーデスは不貞腐れるように寝そべったケルベロスの頬を背伸びして撫でた。遠くでは、今日二度目の大地の唸りが聞こえる。ハーデスは流れる川の向こうに目を凝らした。
「もうそろそろ、時間なのだけれど」
見据えた方角にあるのは、最後の審判を終えた者が過ごす〈地獄の前庭〉だった。そこからアケローンの渡守シャロンが、毎日決まった時刻にタルタロス行きを命じられた罪深き死者を舟で引き連れてくる。
その最終便が到着する直前、アケローンの流れが気持ち緩やかになったのを見たハーデスは、未だ動かないケルベロスを呼んだ。
「ああ、来た来た。ほらケルベロス、こちらへ」
見る間に川面が明かりの透けた擦り硝子のようにぼんやりと光る。その上をまず小さな豆粒ほどの強い光がひとつ、やがて白い靄の中に浮かんだ舟を認め、それを漕ぐ暗い人影まで見えるようになると、ケルベロスはやっと顔を上げた。
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