第38話
もう、どうなっても良いとさえ思った。
だがここで、再び予想外の展開がジェロムを現実に引き戻す。
そのきっかけは、またもやパトリスの声であったが、その響きにはこれまでとは全く異なる感情が含まれていた。
「な、何だ、これは!?」
ジェロムは、はっと面を上げて円の中心部を見た。パトリスが上体をのけぞらせ、全身を震わせ、おののいている。
(まさか……!)
石床に突きたてられた長剣の切っ先に、注目した。そこにブランシェーヌの姿はなかった。
「あ、あぁ……」
すぐそばではミネットも、半ば声を失いかけている。
パトリスの突き下ろした長剣はブランシェーヌの胸ではなく、一枚の紙片を貫いているのみであった。
不意に左手の壁際から、くぐもった低い笑いが漏れ出す。
全身に手酷い打撃を受けて横たわっていた筈のデュガンが、のっそりと起き上がった。そしてそれまで彼の巨躯の陰になっていたところに、いささか茫漠とした表情ではあるものの、腹這いの姿勢で目を覚ましているブランシェーヌの姿があった。
ジェロムは大きく目を見開いて、起き上がろうとしているブランシェーヌを凝視した。
夢などではなかった。
表情や息遣い、柔らかな所作。どれをとっても間違いなく、ジェロムのよく知っているブランシェーヌそのひとである。
「厳輔! 貴様! やってくれたな!」
パトリスの怒号が、陰鬱な室内の空気を鮮烈に裂いた。
対してデュガンは、まだ受けた打撃から完全には回復し切っていない様子ではあったが、不敵な笑みで鼻を鳴らした。
「目くらましというのはな、こうやって使うもんでござる」
ジェロムは、もう一度パトリスの長剣に視線の先を転じた。
その切っ先にまとわりついている紙片の表面には、例の複雑な紋様の如き異国の文字が描かれていたのである。
「そうか! 式分けの乗!」
このデュガンの秘術が、術者本人以外の分身をも作り出すなど、ジェロムには到底想像も出来ていなかった。恐らくパトリスも同様であろう。
その予想外の効果が、ブランシェーヌの命を救った。
いつの間にか、パトリスの表情が恐怖に歪んでいる。その様を、デュガンはさも可笑しそうに悠然と眺めていた。
「それがしの影道は御辺の魔術には及び申さぬ。されば、御辺と約を結ぶ悪魔であれば、如何でござろうな」
「き、貴様……そこまで知っていて……!」
いいかけて、パトリスはぎょっとした表情を自身の足元に向けた。突如、硬い石畳で構成されている筈の床面に、彼の両足が沈み始めたのである。まるで泥か何かに変質したかのように、石床は徐々にパトリスを飲み込みつつあった。
パトリスは慌てて周囲を見渡し、虚空に向けて叫ぶ。
「ま、待て! 待ってくれ! 煉獄の悪魔よ、これは間違いだ! 契約を破棄した訳ではないのだ! い、今一度、私に機会を!」
しかし、応える者は居ない。
その間にもパトリスの肉体は、膝下までが底無し状の床に沈み込んでいた。
「父様!」
ミネットが円の中心部に向けて走り出そうとした。が、それよりも早くパトリスが右掌をかざし、ジェロムに向けた。
突然、たとえようもない激痛がジェロムの胸を襲った。同時に喉が圧迫され、呼吸が出来なくなった。
「うっ……ぐぁっ!」
ジェロムはその場に卒倒し、悶絶した。全身から脂汗を噴き出しつつ、両手で喉を掻きむしる仕草を見せるものの、彼の気道は一向に回復する兆しを見せない。
意識が飛びそうになった。
それでもジェロムは気力を振り絞り、何とか持ちこたえようと懸命に堪えた。
ここで気を失えば、そのまま命を落としてしまう。本能的な危機意識が、辛うじてジェロムの精神を支えていたのである。
「父様! 一体何を!?」
足を止め、ミネットが叫ぶ。
パトリスかジェロム、どちらに駆け寄るべきか。明らかに彼女は迷っていた。
一方デュガンも立ち上がろうとしているものの、先ほどパトリスから受けた打撃がまだ残っているのか、立ち上がりかけては膝から崩れるといった動作を繰り返していた。
「ジェロム! しっかり!」
ブランシェーヌがジェロムの傍らに駆け寄ってきた。
しかし彼女にも、為す術がない。ただ必死の形相で、苦悶するジェロムを気遣うしか出来ない様子であった。
更に太もも付近まで沈みかけているパトリスが、鬼の形相で吠えた。
「ジェロム、贄になってもらうぞ! こんな時の為に、お前を一人前の騎士として育ててきたのだからな!」
意識が遠ざかりかけては、何とか生命の力で引き戻すという苦痛の中で、ジェロムはパトリスの声にふと、過去を思い出した。
穏やかな午後の陽射しの中で受けた、剣の手ほどき。騎士の何たるかを、懇々と説いて貰った夕食時。叙任式に向けて、作法や礼を厳しく躾けられた居館での一夜。
いつもジェロムの傍らには、パトリスの優しい笑みが添えられていた。
パトリスに励まされるたびに、壁にぶち当たってくじけそうになった心が折れずに済んだ。
家族を失い、路頭に迷いかけていたところを拾ってくれたのが、パトリスだった。
パトリスこそが、育ての親であった。本当の父親であるとさえ思っていた。
だが、そのパトリスが今や――。
「煉獄の悪魔よ! ここに純真なる騎士の魂と精神を持つ者を捧げる! 今一度、我に契約の時を……!」
不意に、パトリスの声が途切れた。同時に、ジェロムの全身を駆け巡っていた激痛の嵐が消える。
「がっ、はぁっ……!」
呼吸は回復したものの、ジェロムは両手で空を掴もうとする仕草を見せて悶えた。受けた打撃は想像以上に激しく、すぐには起き上がれそうにもなかった。
それでもジェロムは面だけをパトリスに向けた。
何故、彼を襲っていた苦痛の縄が解かれたのか、その原因を探る為である。
ジェロムは喉の奥で、あっと声を漏らした。傍らでジェロムを気遣っていたブランシェーヌも、円の中心部で起きている事態に、小さな悲鳴を上げている。
ミネットが、小剣を突き下ろしていた。その切っ先がパトリスの右肩に深々と食い込んでおり、血飛沫がミネットの童顔を紅く濡らしている。
パトリスの両目が、驚愕の色を浮かべて見開かれている。その視線は、不思議なほどに穏やかな表情を浮かべるひとり娘の面に、じっと注がれていた。
「駄目よ、父様」
ミネットは穏やかに囁いた。
見ると、彼女の両足もパトリス同様、底無しの泥と化した石床に沈みつつある。
だがミネットは、自身の体に迫る危機などまるで意に介した風もない。ただひたすらに、確固たる意志の光を湛えて、父親の顔を間近から覗き込むのみである。
「ジェロムだけは、連れて行かせない……その代わり、あたしも行ってあげる。一緒に地獄へ参りましょう、父様」
ジェロムは起き上がろうと必死にもがいた。今ならまだ間に合う。ここで身を起こして駆け寄れば、ミネットを失わずに済む。
しかしジェロムの肉体は、彼の意志を拒んだ。直前に受けた打撃が、一切の行動を阻んでいたのである。
「行くな、ミネット……!」
ようやく擦れた声を絞り出したが、ミネットに届いたかどうか。
ブランシェーヌが慌てて肩を貸し、ジェロムを起こそうと必死に頑張ってくれている。
その間も、パトリスとミネットはジェロムの前から去ろうとしていた。石床に沈む速度が、それまでよりも更に速まったように感じられた。
パトリスへの意識。複雑な思い。もちろんそれらとて、あるにはあった。しかし今のジェロムには、ミネットしか見えていない。
「行っちゃ駄目だ……行かないでくれ! ミネット!」
悲痛な色を帯びたジェロムの叫びに、ようやくミネットが反応した。彼女はどこか寂しげに微笑み、小さくかぶりを振った。
「良いのよ、ジェロム。あたしね、ジェロムの為だったら……」
「馬鹿をいうな!」
ジェロムは吠えた。怒りが、彼の頭を真っ白にした。
それはミネットに対する怒りではなく、彼女を救えない己の無力さに対する、憤怒の情であった。
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