第33話
ジェロムが再度声をかけようとすると、デュガンは腰に吊るした麻袋に手を突っ込み、中から黄ばんだ色合いを見せる拳大の革袋を取り出した。
焼薬巾である。ジェロムはごくりと唾を飲んだ。
「ひとつ、試してみますかな」
「使い方は、簡単なのでしょうか?」
ジェロムに訊かれ、デュガンは革袋の口から伸びる一本の細い綱を引っ張る仕草を見せた。
「これを引くと、中に仕込んだ火打石が導火油に点火する仕組みになっておる。但し、引いてから炸裂まで三秒と時間がござらぬ。加えて、威力が威力でござる。安易に人の近くで使えば巻き添えは必定。扱いはくれぐれも慎重にせねばなりませんぞ」
脅された気分になったジェロムだが、それでもないよりはましだ。
いや、前回の苦闘を考えれば、むしろ非常に有効な攻撃手段であるとも思える。
ジェロムは受け取ったみっつの焼薬巾のうち、ふたつは腰の革帯に挟み込み、ひとつを左手に握り締めた。
何かの拍子で誤爆したら、という恐怖心もなくはなかったが、今はとにかく、エモンラニエ城に辿り着く為の方策であるとして信じるより他にない。
ひと呼吸入れてから、ジェロムはミネットと侍女達に、諭す様な口調で語りかけた。
「僕とデュガン殿で、何とか突破口を開きます。皆さんは全力でエモンラニエ城まで走ってください。息の続く限り、決して足を止めてはなりません。良いですね?」
血飛沫と、絶叫、そして咆哮。
目を、耳を覆いたくなる惨状の中で、ミネットと侍女達は必死の形相でジェロムの言葉に傾注していた。
そうしなければ、生き残れないのだ。
誰もが青ざめ、全身が小刻みに震えているものの、異を唱える者はひとりも居なかった。
「ジェロム、傷は大丈夫? 痛みはないの?」
これほどの局面にありながら、ミネットは未だ傷が癒えていないジェロムを気遣い、不安げな表情を向けてきた。
ジェロムは嬉しいとは思ったが、ここは甘えていられる状況ではない。
微笑を湛え、小さく頷き返した。
「ありがとうミネット。落ち着いたら、また看護をお願いするよ。きっとその頃にはもう、全身がばらばらに砕けそうになってるだろうからね」
「う……うん! そうだねっ……!」
僅かに元気を取り戻して、ミネットははにかんだ笑みを浮かべた。
この笑顔を、何としてでも守り通さなければならない――ジェロムは腹をくくった。
エモンラニエ城方面で、何度目かとなる咆哮が大気を裂いた。
振り向いたジェロムは、平野の真ん中でまさに仁王立ちとなっている巨大な影を、じっと睨み据えた。
巨獣の足元では、死屍累々とエモンラニエ兵達の遺体が折り重なっている。
それらの大半は踏み裂かれたり、或いは肉体の半分以上を食い千切られるなどして、既に人間としての外観を失ってしまっていた。
巨獣と、目が合った気がした。
いや、実際視線が交わったのだろう。
ぴたりと動きを止め、ジェロムをじっと凝視している巨大な蜥蜴の如き面相と、しばし睨み合いになった。
が、それもほんの数秒程度に過ぎず、ジェロムは右手に長剣を携え、左手に焼薬巾を握り締めたまま、ひと声大きく叫んだ。
「いくぞ、化け物!」
それに呼応するかの如く、正面の巨獣が尖った鼻先を天に向けて、雄叫びを放った。
最初に、デュガンが走り出した。
黒衣の巨漢はジェロムと同様、右手に得物、左手に焼薬巾という組み合わせで攻撃態勢を整えている。
真後ろに付き従う格好で、ジェロムも続いた。
女達は、まだ足を動かしていない。
ジェロムとデュガンが突破口を開くまでは、下手に近づいて来られては困る為、敢えてその場に押し留めておいたのだ。
巨獣も動いた。
突撃を敢行するデュガンとジェロムを、次の目標と定めたのであろう。
強靭な後肢を前後にまわし、一直線に突っ込んでくる。極端な前傾姿勢から、更に頭を低くして牙の列を大きくこじ開けてきた。
勢いに任せてジェロム達を平らげてやろうという意図であろうか。
するとデュガンが一層加速し、巨獣との間合いを瞬く間に詰めていった。ジェロムの足では到底追いつけないほどの変速ぶりである。
ロワール川河畔での戦いを、ここでも再現させようという腹積もりなのは明白であった。
(よしっ!)
ジェロムは僅かに軌道を逸らし、巨獣の側頭部を狙える角度に向けて走った。
長剣を脇に挟み込み、左手に握った焼薬巾の絞り口から伸びる細い綱を、右手で握る。
デュガンと巨獣が、接触した。
巨獣の噛みつき攻撃が一発、二発と空振りする。そして三発目。そのタイミングに全神経を集中した。
噛み合わされた牙の列の動きが一瞬止まり、デュガンの巨躯が鱗肌の向こう側に消える。
ジェロムは綱を引き終えると同時に、素早いモーションで必殺の一撃を投じた。
まばゆい閃光と、鼓膜を破ろうかというほどの炸裂音。
そして皮膚を焼き尽くさんとばかりに襲ってくる灼熱波が、突風の如き衝撃となってジェロムの全身に叩きつけられた。
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