第29話

 ジェロムは、主塔の地下階に通じる石段を飛ぶように駆け下りていた。

 手にしている燭台の火が向かい風にさらされて、今にも消えそうなほどの勢いである。

 彼が走る先には、デュガンが居る筈であった。

 ルゥレーン城が受け入れようとしている降伏勧告、そして人質としてエモンラニエに送られるブランシェーヌ。

 これらの事項について、ジェロムは全くの無知であった。

 出来ればラヴァンセン公やブランシェーヌ本人から、もっと詳しい話を聞きだしたいところではあったのだが、封主が決定を下した問題に対し、一介の騎士たる身分に過ぎないジェロムがあれこれ聞き出そうとするのは、あまりにも礼を失する。

 ならば、これらの情報に最も通じていそうな人物から聞き出す他はない。

 そこで目をつけたのが、あの黒衣の巨漢であった。

 ルゥレーンでは右に出る者が居ないとされるほどの情報通たるデュガンならば、何か知っているに相違ない。

 半ば確信に似た思いを抱いて、ジェロムはひたすら地下の一室を目指す。

 背後で、同じ様な調子で別の足音が響いていた。

 ミネットである。

 彼女もまた、ジェロムと同様に事態の真相を聞き出すべく、後に付き従っていた。

 石段を下り切ると、目の前で傷みの激しい木製扉が行く手を遮る。ジェロムはノックもそこそこに、勢い良く押し開いた。


「デュガン殿、いらっしゃいますか!?」


 吠えるように呼びかけた直後、ジェロムは思わず顔をしかめた。鼻腔を衝く強烈な異臭が、一気に不快感となって全身を駆け巡った。


「うわっ……何、このにおい?」


 傍らで、ミネットも小鼻の頭を指先でつまんでいる。

 今まで嗅いだ経験のない、腐臭の様なにおいであった。

 長時間吸い続ければ、吐き気をもよおすのではないかとさえ思える。

 しかしそんな中でも、デュガンは苦しげな表情ひとつ浮かべず、燭台の灯りの下で、何かの作業に没頭している様子だった。

 大きな体を窮屈そうに曲げて木椅子に腰を下ろしている姿に、ジェロムは怪訝に小首を傾げ、次いでミネットと顔を見合わせる。

 こちらの呼びかけが耳に届いていないのか、とも思った。

 しかしデュガンは軽く顎をしゃくり、手近の木製ベンチを示した。座れ、といっているのだろう。

 決して慣れないだろう思われる異臭の中、ジェロムとミネットはおずおずと遠慮がちに木製ベンチへと腰を下ろした。

 それから首を伸ばして、デュガンの手元を覗き見る。

 卓上に、様々な色合いの粉末や液体が入った小鉢が、幾つも並んでいる。

 そしてデュガンの大きな掌が革製と思われる布を袋状に丸め、卓上に並ぶ小鉢内の粉末や液体をその中に包み込んでいるのである。

 実に丁寧且つ慎重な手つきであった。

 いつになく真剣な表情を浮かべており、相当集中しているのが分かる。

 声をかけて良いものかどうか、ジェロムは少し迷ってしまった。

 すると、そんなジェロムの迷いを見透かしたかのように、デュガンの方から用向きを問いかけてきた。


「降伏勧告の件でござろう?」

「あ、はい……それと、姫様の人質の件も、もしご存知ならお伺いしたいのですが」


 この時になって初めて、デュガンは手を止めた。

 黒衣の巨漢は額の汗を手の甲で拭う仕草を見せると、僅かに上体をひねってジェロム達の方に面をめぐらせた。


「表面だけを見れば、まさにそのままですな。フランス側が降伏勧告を出してきた。城内の生存者の命と引き換えに、姫様が人質としてエモンラニエに向かう。単純至極ですわな」

「今、表面だけを見ればと仰いましたよね?」


 ジェロムは表情を厳しくして訊いた。

 デュガンのいいまわしの中に、別の意味が含まれているのは明白であった。

 ジェロムはデュガンに対してのみ意識を集中させていたが、傍らでは、ミネットが息を詰めるようにして身を乗り出してきているのが、気配で分かった。

 デュガンはあからさまに呆れた表情で、小さく肩をすくめた。


「こんなおかしな話がござろうかい。フランスと我らは、いわば国取り合戦をしておるのでござるぞ。しかるに、折角落とした城を取ろうともせず、娘ひとりを迎え入れるだけで満足する馬鹿がどこに居ろう」


 ジェロムは思わず、あっと声をあげた。

 確かに、その通りである。フランスとアンジュー帝国が騒乱に至ったそもそもの原因は、領土問題なのである。

 敵方の城を落とせばすぐにでも占領下に置き、自領を増やす方策を取ってしかるべきであろう。

 加えて、ここルゥレーンはトゥールとは目と鼻の先に当たる位置にある。

 対アンジュー帝国戦線を張るに際し、このルゥレーン城を取れるかどうかは、戦略上、非常に重要である筈であった。

 それなのに今回の降伏勧告の条件はといえば、ブランシェーヌの身柄のみであった。尊厳王にとって、ブランシェーヌひとりの存在が如何ほどの意味を持つのであろうか。

 考えれば考えるほど、おかしな話であった。


「何か、僕達の想像もつかない企てが裏に潜んでいる……そう考えるべきでしょうか?」

「可能性は高いと存ずる。故に、それがしは」


 ここで、デュガンは作業を再開した。

 その視線は彼の手元に戻され、太い指先が革袋の口を素早く締め上げてゆく。

 一瞬、ジェロムの意識が卓上に並べられている革袋の山に向けられ、その数の多さに思わず息を呑んだ。

 しかしそれも、ほんの刹那に過ぎない。デュガンが次に放ったひと言が、ジェロムの関心を強く惹きつけたのである。


「姫様の付け人として、ともにエモンラニエに向かう。今こしらえておるのは、その際に持参する切り札の様なもんでござる」

「そ、それならば!」


 ほとんど反射的にジェロムは叫んだ。


「僕もご一緒します!」

「あたしも!」


 傍らでは、ミネットが身を乗り出してきていた。ジェロムに負けず劣らず、やや興奮気味の様子であった。

 大きな掌の中で謎の革袋をひとつ完成させたデュガンは、ふたりに向き直った。その表情はしかし、どちらかといえば、やや呆れている様な色に近い。


「それがしにいわれても困りますな。ついて行きたいのであれば、ご自身で姫様にそう進言なされよ。まぁ推薦ぐらいはして進ぜよう」


 ジェロムは頭を掻いた。

 よくよく考えれば、デュガンにはジェロム達を差配する権限はないのである。いわれる通りに、直接ブランシェーヌへ申し出るのが筋であった。

 ならば早速、とデュガンの地下室を辞そうとしたジェロムだが、ふと気になって、室の入り口で足を止めて振り向いた。

 隣でミネットが、早くこの臭い部屋から出たいといわんばかりの視線を投げかけてきていたが、ジェロムは敢えて無視してデュガンに問いかけた。


「その革袋は、一体どの様な代物で? 先ほど、切り札と仰っていましたが」


 どうせまともな回答は得られないであろうが、一応訊いておこうと思ったまでである。だが意外にも、デュガンからそれなりの返事が戻ってきた。


「これは焼薬巾といいましてな。特別な薬品と油の類を駆使して完成させ申した。炎を噴き出しつつ炸裂します。ただ、ちぃっと扱いが厄介でしてな。おいそれとは使えんのが、欠点といえば欠点ですかな」


 何とも物騒な話であった。

 もしデュガンの言葉が本当なのであれば、エモンラニエを少数で陥落させるのも可能なのではないか――つい、そんな考えがジェロムの頭の中をよぎる。

 しかし、嘘だとも思えなかった。

 居館内の戦闘で、敵兵を炎上させた奇術を、既に見ているジェロムである。これまでデュガンが示してきた数々の秘術を考えれば、あり得そうな話でもあった。


「使いどころはありそうでしょうか?」

「左様さな。あの化け物に襲われた場合などには、役に立ちそうな気もしますわな」


 思わずジェロムは、ごくりと息を呑んだ。

 デュガンは今、何気なく語ったのであろうが、ジェロムにとっては決して聞き流して良い内容ではなかったのである。

 あの巨獣が現在どこに潜んでいるのか不明であり、今も尚、全く楽観は出来ない。

 少なくとも、此度の篭城戦がこれほどまでに惨烈を極めたのは、巨獣の仕業と思しき各村の壊滅が大きな要因となっていたのである。


(もし、エモンラニエへの道中で襲われたら……)


 考えかけて、ジェロムは激しくかぶりを振った。その傍らでミネットが、驚いたように両のまなこを見開いて、心配げにジェロムを覗き込んできている。


「ごめん、何でもないよ。さぁ、行こう」


 ジェロムは異臭漂う地下室を出て、階上へ向かった。手燭を持つ手が、僅かに震えていた。

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