第7話
ルゥレーン城域内は、メロドゥワ村のディオンタール邸。
ジェロムは全身に走る鈍痛の群れに抗いながら、自室のベッドで身を起こした。
腰丈の麻製ローブを頭からすっぽり被り、下はこれまた粗末な麻織りのズボンという姿である。
当時は貴賎を問わず、平服はこういう服装が一般的であった。寝間着の概念もない時代だったので、平服のまま就寝するという慣習も珍しくはないのである。
昨晩、マルセランとその部下達から受けた暴行の傷跡が、青黒い痣や擦過傷となって、体中の至るところで強烈な自己主張を続けてやまなかった。
城から戻ったジェロムを出迎えた邸の家士や侍女達は、大騒ぎしながら彼を介抱してくれたのだが、幸いにも骨折等の重傷は見られなかった。
それでも、矢張り痛いものは痛い。
木枠に藁を詰め、その上にシーツを被せただけという簡素なベッドの上で座り直したジェロムは、特に痛みの強い二の腕や背中、腰などをさすりながら、壁に視線を転じた。
閉じられた木窓の隙間から、金色の光が直線となって幾つも射し込んできている。
両足を屋内用の木靴に通して、のろのろと立ち上がる。ジェロムは全身の痛みに顔をしかめながらも壁際に寄り、木窓を開けて、朝の清々しい空気を室内に迎え入れた。
なだらかな丘陵沿いに広がる麦畑の隆起が、東西に走っている。
村の農民達がそこかしこで農作業に勤しんでいる姿が、視界の中に飛び込んできた。遠目ではあるが、どの顔もジェロムにとっては見知った面々であった。
(暗い顔をしてちゃいけないな)
昨日の雰囲気をそのまま引きずってしまっては、邸内に要らぬ不安を広げてしまう。
確かに討伐隊の一件は、ジェロムの中では何一つ解決していない。しかし家士や侍女達にまで余計な心配をさせるのは主人の不覚である――これは、パトリスから教えられた騎士の心得のひとつであった。
空元気でも何でも良いから、とにかくここでは明るく振る舞おう。そう決意したジェロムは、全身が悲鳴をあげる中、必死に両腕を上げて背伸びし、硬直した肉体をほぐそうとした。彼は苦痛の色を顔には出さぬよう努めて平静を装い、室外すぐそばの階段を下りた。
玄関と台所、そして食堂を兼ねる土間造りのホールに顔を出すと、数名の家士や侍女達が慌てて駆け寄ろうとしてくる。ジェロムは彼らを手で制した。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。昨晩はすまなかったね」
「あまり無理をなさらぬよう、お願い致しますぞ」
老齢の筆頭家士が、苦笑混じりに諌めてきた。ジェロムは頭を掻いて、はにかんだ笑みを浮かべた。
他の面々もまだ若干心配そうな様子ではあったが、それぞれの作業に戻っていく。
ジェロムは木製の大きな食卓につき、侍女が用意した野菜スープと硬いパンの朝食にありついた。この一瞬だけを見れば、いつもの風景であった。
だが、それも長くは続かない。
不意に玄関の分厚い木製扉が、けたたましく打ち鳴らされたのである。
家士の一人が応対に出ると、ジェロムにも見覚えのある顔が、引きつった表情で邸を訪問していた。ルゥレーン城付きの家士であった。
ジェロムや彼の家士達とは異なり、この城付きの家士は革鎧をまとっている。一種の軽武装であった。
「どうしたんだい? まだ登城の時間には早いと思うんだけど……」
ジェロムが、食事の手を止めて玄関扉付近に足を進めた。
すると城付きの家士はジェロムの痣にまみれた異相に度肝を抜かれたらしく、ぎょっとした表情を浮かべて立ち尽くしてしまった。しかしすぐに自身の用件を思い出したらしく、その城付きの家士は慌てて咳払いして、姿勢を改めた。
今度は、ジェロムが凍りつく番であった。
城付きの家士が放ったひと言は、ジェロムの穏やかな笑みを崩し、驚愕の色へと一変させたのである。
「至急バルバラッセル村にお越し願いたい。村民の半数以上が死傷する事故が発生したとの由でございます」
息が止まるほどの衝撃が、ジェロムの全身を一気に貫いた。
バルバラッセル村は、パトリス・グラビュの領村なのである。パトリス死去により、暫定的にルゥレーン伯直轄領扱いとする措置が、昨晩決まったばかりであった。
メロドゥワ村からバルバラッセル村までは、比較的近い。馬を走らせれば、十分とかからない距離であった。 ジェロムは正直なところ、少しばかり自身を落ち着かせる為の時間が欲しかった。
バルバラッセル村へ急行し、救援活動に従事するのは決してやぶさかではない。
むしろ率先して、少しでも役に立てればとも思っている。が、まさに昨日の今日である。討伐隊唯一の生き残りがジェロムであるという情報も、既に先方には伝わっているだろう。
救援活動の為とはいえ、ジェロムが姿を見せた時、バルバラッセル村の人々が一体どの様な視線を投げかけてくるのか。
今の彼は、暗黙の批難に耐えられるのかどうか、自信が持てなくなっていた。
(……でも、行かなきゃ)
どこからそんな気力が湧いてきたのか自分でも分からなかったが、ジェロムはとにかく、決心した。
彼は姿勢を正し、ルゥレーン伯の命令に対して騎士の礼を取って答えた。
「ご命令、確かに承りました。急ぎ人足を催し、バルバラッセル村へ向かうでありましょう」
「ではその旨、間違いなくルゥレーン伯へお伝え致します」
城付きの家士はジェロムの受命を復唱すると若干慌てた様子で邸を辞し、その数分後には馬上の人となって、ルゥレーン城方面へと去っていった。
ジェロムも、のんびりしている訳にはいかない。
まずディオンタール邸の家士から数名を選抜し、続いてメロドゥワ村の民からも、余力のある農家から人手を掻き集め、合わせて十五名から成る救援隊を編成した。
幸い、召集に応じた村民達は、嫌な顔ひとつ見せずに集まってきてくれた。
しかし一方で彼らは、ジェロムの痣だらけの顔に不思議そうな視線を送り、互いに目を見合わせている。
同僚にいたぶられた、などとはさすがにいえず、ジェロムは誤魔化すように頭を掻いて、苦笑する他はなかった。
「これより、バルバラッセル村の救援に向かう。忙しいところを申し訳ないが、これも人助けだと思って尽力して欲しい」
村の中央広場でジェロムが宣言すると、救援隊は三台の荷車を曳いて、朝の冷たい空気の中を出立した。
荷車には持ち寄られてきた工具の他、共同資材置き場から調達してきた余剰木材などが積み込まれていた。
ジェロムは騎士である上に、この救援隊の指揮官でもあるのだが、彼は馬などは用いず、自らも荷車を曳く人足のひとりとして、人々の間にその身を置いた。
(パトリス殿の村なんだ。何があろうとも、行かなくちゃならない)
バルバラッセル村で、どの様な反応が待っているか。大いに不安ではあったが、しかしそれ以上にジェロムは強い使命感をたぎらせて、ひたすら足を進めた。
馬車道を、救援隊の人数がゆっくりと進んでゆく。
この規模と速度であれば、正午前には到着するであろう。
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