第3話 交渉は概ねごり押しだ
「お目が高いぜおじさん」
顔中に絆創膏を貼った少年が、右腕と左腕に生地を掛け男に売り込みをしている。「こっちのはマリルレッジ産の黒で染めた糸を使ってるんだ。変に浮かない良い黒だろ。今年から始めた新作だぜ。着心地もパリッとしていて気持ちがいい。こっちのはうちの伝統の逸品。洗うのにも強くて、軽くてもそんじょそこいらの生地には負けない耐久性が売りの一品だ」
右手の新作という生地はコードレーン。先染めの黒と白の糸が折り合った細かい縞模様で、黒色を使用していても明るい仕上がりの生地だ。左手に持っているのは漆黒とも呼べる黒で、ハリコシの良い生地はポーラの特徴だ。
「モノ&ブラックといえばブラックウルフ一択だと思っていたが、こっちも悪くないな」
「だろ? ブラックウルフはがっちりフォーマル向きっていうか、いや、どんなんでも似合うよ、かっちり目のカットで角張ったラインの仕立てもいいし、ラベルを太めにとって三つ揃えだって似合うよ。でもさっきのストライプじゃおじさん、いかにもって感じじゃん。ストライプなら、おれはこっち。絶対似合うって」
コードレーンを男に併せて、な、と少年は店一番の大鏡を覗く。
いかにも、とは、いかにも殺し屋だって? イリスはすっかり打ち解けたらしいふたりを椅子に座ったまま眺めている。あまりにも気安い接客ではらはらするが、大鏡に映る男の表情は真剣そのもので、似合う、と出されたそれもまんざらではなさそうだった。殺し屋然としているのは服より着る人間に付随していると思うが、一度吐いて吐き気が落ち着いてきた今も口に出す気にはならなかった。
「大丈夫ですか」
父親が、つまりこの店の主が、銅製のマグカップをカウンターに置く。
「すみません、今立て込んでいまして」
「いえ」
こちらこそ、と答えようとして、それではまるきし男の身内みたいではないかと押し黙ると、店主が一度男と子供の方を見て、視線を戻して、にこりと笑う。
一刻前には一触即発といった状態だったが、人というのは想定外のことが起こると冷静になるらしい。車から降りてきたイリスがいきなり嘔吐したことと、あれだけ怒りをまき散らしていた男があっさりイリスの元に向かったせいもあるだろう。車酔いする体質のおかげで警戒心が解けたのはありがたかったが、男に背中を撫でられるイリスは情けなさが勝った。少し休んでいかれては、と、ひどく曖昧な流れで店に招かれたし、そこが訪れたかった店だったから男の機嫌はあっという間に回復し、店を歩き回る男に少年もいつの間にか商人根性が勝ったらしい。恐れる様子もなくついて回っている。
男は少年を助ける際に右腕を巻き込んで負傷していてスーツも破けていたが、痛みや不満を訴えることはなかった。なんなら売り物の生地を触れないことを悔しがるくらいだった。死なないのだから怪我も取るに足らないことなのだろう。
「私はロイ・ブラックと申します。この街の商工会の会長を務めております。このたびは子供を助けていただき、まことにありがとうございました」
男に向けた言葉だったが、男は生地選びに熱心で、反応しなかった。必然的にイリスが答える羽目になる。
「感謝されるようなことでは」
「いえ、我が子の命を救っていただいて、感謝しない親はおりませんよ。息子もまあ、すっかりお客さんのファンになってしまったようで」
制御不能のトレーラーから飛び降りて少年の命を救ったのだ、という部分だけ見れば英雄的だが、男は絶対に少年を見殺しにしたら買い物ができなくなることを見越して行動をしているし、言うならバリケードなりを突破して突き進んできたこちらが原因である。男にしてみれば全て当然の行動という顔をするだろうが、イリスはそれほど厚顔ではいられない。先ほど店主は立て込んでいると口にした。バリケードも投石も、その立て込んでいるもののために用意していたものだろう。
「むしろこちらが面倒をおかけしているようです」
「いえいえそんなことはありません。もうすぐ医者も到着すると思いますので、それまでもう少々お待ちくださいね」
店主が男を見るのに合わせて、イリスも男を見る。大方、本来バリケードで退けたかった相手と間違われたのだろう。まあ、勘違いされても仕方なかった。
「今でも忘れない、六年前のガバーラッヂを殺す依頼を受けたときの話だ」
鏡の前では昔話が始まっていた。自慢げな男と目を輝かせている少年が鏡越しに話し合っている。
「相手は中堅のマフィアでな、さすがの俺も、命に関わるかと思っていたわけだ。五十人からの大所帯だったしな。しかし俺は生きて帰った。飛ぶように体が動いたからだ。銃は一発もはずさなかったし、殴った相手を三メーターは吹っ飛ばせた。そのとき着てたのがここの生地で仕立てたスーツだ」
「かっけー おじさんかっけー」
「ブラックウルフは特別だ。どれだけ動いても人の動きを邪魔しないしなやかさ、手に吸い付くような滑らかさでありながら下手な光沢を生まない餞別された糸の美しさ、柔らかさを失わずそれでいてしっかりと形を保つハリ感、嫌味のない赤、少しも不快感を生まない生地。最高だった」
「そうだろ、うちの生地最高なんだよ。おじさん、もっと言って」
「最高だ」
男が無事な手でサムズアップしてみせると、やったーと少年が飛び上がる。
「まあそんなんで、俺は、そこから仕事をするときに着るものは選ぶようにしてんだよ」
「それだと毎回新しいスーツを仕立てる必要無くないですか」
「それを話すと長い」
イリスが独り言の声量で指摘すると、勢いよく振り返った男に真顔で断言される。今は結構、と右手を挙げて押しとどめる仕草をすると、男は頷いた。
「これがいい。次の仕事はこれでやる」
黒と白のコードレーンをカウンターに置いて、綺麗な方の手でてんてんと叩いてこちらを振り返る男の顔は、期待に満ち満ちている。
「これなら文句ねえだろ」
「ないですが」
眉間に皺を寄せて頷く。ケチのひとつもつけたいが、悔しいことに季節にも仕立てにも十分の生地だった。
「これを買う」
「そちらは差し上げますよ」
ぱちりと瞬きして店主を見る。ロイ・ブラックはにこやかに笑って頷いた。
「息子を助けていただいたお礼です」
「そんなもんで配っていい生地じゃねえだろ」
「ありがとうございます」
頷いたロイがたたずまいを直す。
「あなた、死なずのリサージ」
「いまんところは」
「金で始末屋の仕事を受けているという」
「おう。依頼がバッティングしなけりゃな」
「私たちの依頼を受けていただけませんか」
「この生地が手付金だって?」
「報酬はきちんと準備いたします」
「断る」
男は明らかに不機嫌になって、その顔を隠しもしない。
「この生地はきちんと対価を払う。俺は気に入ったものには金を使う主義なんだ。依頼は別だ。今は新しいスーツもねえし、受ける気はねえ」
店主がまた、笑顔になる。先ほどとは違う、暖かい笑みだ。
「リサージはスーツを愛している、という噂は本当なんですね」
「あ? わかってて交渉してきてるだろうが」
「いや、お恥ずかしいです。ですが本当にそうだとわかるのでは別ですよ」
恥ずかしいという割には、誠実な顔で、ロイは言う。
「今、この街はリズ・ファミリーに目を付けられていて抗争中なのです。あなたがいれば、あなたの力を借りられればリズの言いなりにならなくてすむ」
「気が乗らねえ」
「何故ですか。リズにこちらを潰すように依頼をされている?」
「そんなわけあるか」
リズ・ファミリーとは再来週までのターゲットであるベンジルの子飼い組織だ。ベンジルをやるとなったら、リズの依頼は受けないのが筋だ。
「であれば、あなたがやる気になれば受けていただける?」
「俺は買い物をしに来たんだよ」
「リズを追い返したら存分に楽しんでいただけると思いますよ」
「売らない気か」
「いえいえそんな。しかしこんな慌ただしさではお客様のおもてなしも難しいですし」
店主はにこやかに、しかし辛抱強く続けている。
「なにが報酬だったら受けていただけますか。必ず用意いたします」
「……いつだよ、その仕事」
「明日の正午に」
「無理だ」
さすがに、イリスも驚いた。急な依頼過ぎる。しかし男の反応は別だった。いやある意味予想通りだった。
「それじゃあ新しいスーツが作れねえ」
隙あらば新しいスーツを作ろうとする。筋金入りすぎて、もはや感心する域だ。
ロイはしばらく男を見つめたあと、ため息めいた息を吐いた。
「リズ・ファミリー対策で作った罠を、あなたが壊してしまったから」
「責任取れって?」
「いいえ。しかし、負けたら、ここは燃やす手はずになっています」
「む」
「この世は弱肉強食。この街が弱ければ、いずれどこかのファミリーに支配され上前を跳ねられることを受け入れるしかありません。しかし、リズ・ファミリーでは、モノ&ブラックの名で粗悪な品を作ることになります。それはこの店の主として、職人として、絶対に受け入れることはできません。この街の、他の職人も皆そうです」
男がつぐんだ口をへの字に曲げる。
「依頼を受けては、いただけませんか。無類のスーツびいきと名高いあなたがこの街に来たのは、裁縫の神の差配としか思えないのです」
男は唸った。自分の流儀と、この街の未来を秤に掛けているのだろう。気に入った工場がなくなるのだ。着道楽としては簡単に見捨てることはできないに違いない。
「……わかりました」
答えを渋る様子に、ブラックは一度目を閉じると、頷き、目を開いた。
「この依頼を受けていただければ商会の工場全てにあなたをご招待いたします」
「なんだと」
「私はこの街の商会をとりまとめる立場にありますから、工場長の案内付きで奥まで見せてもらえるよう口添えしますよ」
「やる」
男は決断した。ロイ・ブラックがカウンターの陰でこぶしを握ったのを、イリスは見逃さなかったが見なかったことにした。
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