第12話 ヴァンサンの知人
朝の草むしりをしながら、私はエレーヌさんに昨日のことを話していた。
「――というわけで、貧民区画の慰撫を頼まれたのよ」
エレーヌさんの手が止まり、目を見開いて私を見つめていた。
「……
しかも、帝国の福祉政策まで頼まれたなんて」
私は小首を傾げながらエレーヌさんに尋ねる。
「何かおかしかったかしら?」
エレーヌさんがハッとして手を動かしながら、微笑んで私に告げる。
「おかしいことだらけよ?
しかも『国政に関われ』だなんて、捕虜に命じることではないわ」
ラシェルが明るい声で私たちに告げる。
「でもカミーユなら、『そんなこともある』って思えるから不思議だよね!」
どういう意味だろう? ――ん? また私の周りに風が届いてる?
『おはよう、カミーユ。どうか今日も健やかに』
私はクスリと笑みをこぼして小さな声で呟く
「ありがとう、風さん」
エレーヌさんがきょとんとした顔で私に振り向いた。
「なにか言った?」
私は首を横に振りながら微笑んだ。
「なんでもないわ。独り言よ」
私の周りをつむじ風のように風が舞う――柑橘系の匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
あれ? これって香水の香り?
私は手を動かしながらエレーヌさんに尋ねる。
「ねぇエレーヌさん。柑橘系の香水を使うのって、誰かしら」
「柑橘系? 男性ならだいたい柑橘系になるわね。
帝国だと香水を使わない人の方が少ないはずよ」
そっか、じゃあこの風の主は男性なのか。
誰なんだろうなぁ。兵士か騎士か。
朝の挨拶を届けてくるなんて、心優しい人もいたもんだな。
あの冷血皇帝も、少しは風の主を見習ったらいいのに。
文字が書かれた風が消える瞬間、わずかに花の香りが鼻についた。
んー? この香り、どこかで……どの花の香りだろう?
うっかり手を止めて考えていると、ドミニクさんから金切り声が聞こえてくる。
「カミーユ! 手が止まってるわよ!」
おっといけない。
「はーい、気を付けまーす」
ニコニコと微笑みながら手を動かし始めると、ドミニクさんは機嫌が悪そうにそっぽを向いた。
あの人、なんで突っかかってくるのやら。
****
第十二離宮に戻り、服を着替えた私はハリエットに手を洗ってもらっていた。
「手くらい自分で洗えるのに……」
「いけません。洗い残しがあると困りますから」
石鹸で入念に土を洗い落とされ、桶に組んだ水で泡を洗い流していく。
傍で見ていたヴァンサンが、私に尋ねる。
「殿下の手は、庭仕事をしていても綺麗なものですな」
「そうかしら? きちんと丁寧に作業をしていれば、それほど荒れないものよ?」
元々、雑草むしりなんて手先があれる仕事じゃないし。
ヴァンサンが微笑みながら私に告げる。
「では私は、文官に掛け合ってきます。
殿下は離宮からお出にならないようにしてください。
私が不在の間に万が一があると、責任問題になりますので」
私は笑顔で頷いて答える。
「わかったわ――そうだ、帰りに帝国の歴史書を持ってこれないかしら」
ヴァンサンがきょとんとした顔で眉をひそめた。
「歴史書ですか? 帝国の? 何に使われるのですか?」
私はニコリと微笑んでヴァンサンに答える。
「ただの暇つぶしよ。少しでも帝国のことを知っておきたいじゃない?」
私の手を丁寧にタオルで拭いていたハリエットが告げる。
「姫様は勉強熱心ですからね――はい、終わりました」
「ありがとう、ハリエット。
お腹が空いてしまったわ。早く朝食を食べましょう?」
頷いたハリエットが、立ち上がって桶を外に運び出していく。
召し使いの女性がダイニングテーブルにまだ暖かい食事を並べていくのを見て、私も席に着く。
部屋から辞去していくヴァンサンを見送りながら、私は白いパンを手でちぎった。
こんなパンすら、毎日は口にできない人たちがいる。
彼らを慰撫するのか。ちゃんとできるかな?
パンをスープに浸してから口に運ぶと、ふわりと香辛料の香りが鼻をくすぐる。
私は美味しい朝食を食べながら、どうやって貧民を慰撫するか思考を巡らしていった。
****
ヴァンサンが文官たちの仕事場を訪れ、一人の男性の机に近づいていった。
「レイモン、少しいいかな」
呼ばれた気弱そうな男性――レイモンが顔を上げて微笑んだ。
「おや、ヴァンサンじゃないか。朝っぱらからなんの用だい?
君は新しい
ヴァンサンが軽い笑みをこぼしながら答える。
「ちょっと頼みたいことがあってね。
カミーユ殿下が
動かせる文官はどれくらい集められる?」
レイモンが眉をひそめてヴァンサンを見上げる。
「貧民区画の? 護衛の兵士はどうするんだ?
ヴァンサンが肩をすくめながら答える。
「それはこれから、上役にでも相談してみるさ。
場合によっては満足に護衛を付けられないかもしれない。
それでも貧民救済に動ける人間を、どれくらい集められる?」
レイモンが目を伏せながら考えこんだ。
「貧民区画の救済か。福祉政策なら、応じてくれる人間は何人かいると思う。
しかし予算もないだろう? いったい何をする気なんだ?」
「カミーユ殿下はノリエ伯爵と共に、貧民に仕事をお与えになるそうだ。
まずは住居の補修を自分たちで行わせ、それに日当を払う。
財源はノリエ伯爵が出してくれる」
レイモンが慌ててヴァンサンの顔を見つめた。
「ノリエ伯爵?! カミーユ殿下は、クレルフロー王国の王女だろうに。
自分の国を攻め落としたノリエ伯爵に、頭を下げたっていうのか?」
「頭は下げなかったぞ? きちんと胸を張って話し合いに赴かれた。
立派なお姿で対等に話し合い、納得させて協力を得られることになった。
カミーユ殿下は、今までの
レイモンがニヤリと微笑んで答える。
「おやおや、シニカルなヴァンサンが随分な入れ込みようだな。
この短期間でそこまで気に入るなんて、どんな方だ?」
ヴァンサンもニヤリと微笑み返しながら答える。
「お会いすれば分かるさ。レイモンもきっと気に入ると思うぞ」
レイモンが小さく頷いて答える。
「分かった。なるだけ多くの人間に声をかけてみよう。
だがさすがに護衛もなしで貧民区画に出かけるもの好きは居ない。
せめて五人程度は兵士を付けてくれよ?」
「なんとかしてみるが、五人も用意できるかねぇ。
一人か二人でも、文句は言うなよ? 私も付いて行くから、万が一は起こらないと思うが」
小さく笑い声を上げながら、レイモンが答える。
「まぁヴァンサンが居るなら、そこまで不安になることもないか」
「そういうことだ――じゃあ、後は頼んだ。
手配が終わったら離宮に使いを出してくれ」
手を振りながらヴァンサンが身を翻し、文官の仕事部屋から去っていく。
その後ろ姿を見つめながら、レイモンが呟く。
「あのヴァンサンが心を開く
レイモンは書類に視線を戻し、手早く仕事を片付け始めた。
****
部屋で詩集を読み終えた私は、小さく息をついた。
「部屋にある詩集はこれで全部かしら。
もっと本が欲しいわね。どうしたらいいと思う?」
ハリエットが困ったような微笑みで私に答える。
「捕虜の身で本を読めるだけ、マシな待遇でしょう。
もっと自由に後宮から出歩ければいいのでしょうが、『なるだけ自重しろ』と言われております。
もう少し力のある方の協力があるといいのですが……」
ドアがノックされ、入り口に召し使いの女性が現れた。
「カミーユ殿下、お客様がお見えです」
私は入口に振り向いて尋ねる。
「誰が来たの? 名前は?」
召し使いの女性が戸惑いながら答える。
「それが……ロザーラ殿下がお見えになられています。
今は応接間でお待ちです」
私はきょとんとしながら召し使いの女性に尋ねる。
「それは誰かしら? 聞いたことのない名前だわ」
「第二
おっと?
私はソファから立ち上がって告げる。
「わかったわ。今行きます」
第二
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