エピソード6 ちぐはぐな男と女③



夜の街は、すっかり静まり返っていた。2人と別れ、1人きりで歩く帰り道。


ラーメンとビールの満腹感と、少しだけ残った高揚が、まだ胸の奥にふわふわと残っている。


小春はゆっくり歩きながら、ふと視線を横に向けた。

明かりの落ちたシャッター街の中に、ぽつんと光っている店舗があった。

——ネットカフェだった。


3階建ての建物。2階のすりガラスの窓に、うっすらと人影が動くのが見えた。


輪郭こそぼやけていたが、身のこなしや髪の流れから、それが女性らしいことは想像できた。


(まだ起きてる人、いるんだ……ま、そういう場所だしね)


小春は立ち止まり、ふとその人影に目をとめた。

そして、ついさっきまで『とびのや』にいた、あの無表情の女の子の顔が脳裏をよぎる。


(……もしかして、あの子だったりして)


違うとわかってはいる。そんな偶然があるはずもない。


けれど、小春の頭の中では、もう“物語”が動きはじめていた。


夜風が、コートのすそを軽く揺らす。物語のページは、静かに、小春の中でめくられはじめていた。



柊 未来(ひいらぎ みらい)、二十歳。

高校を卒業してから、特にやりたいことも、これといった目標も見つからなかった。


まわりが大学へ進んだり、就職していく中、未来はなんとなくコンビニで働きはじめ、そのままフリーターになった。


実家暮らしを続けていたが、日ごとに親の口うるささが耐えられなくなってきた。

「早く正社員になれ」「このままでどうするの」

わかってる。わかってるけど、うまくいかない。


——そう言い返す気力もなく、未来はある日、黙って実家を出た。


都内の一人暮らしはとても無理だった。家賃は高すぎて、初期費用だけで貯金が吹き飛ぶ。

だから未来は、埼玉の外れ、駅からバスで20分の場所にあるボロアパートに部屋を借りた。

六畳一間。ユニットバス。窓の鍵は、ちょっと力を入れれば外れる。


それでも、そこは“誰にも何も言われない場所”だった。


バイトは、都内。

時給の高いカフェ、居酒屋、パチンコ店、コンビニ、イベント設営——

ひとつの職場に長くは居られなかった。居心地が悪くなる前に、すぐ次を探した。


仕事を終えて、アパートに帰る日は少なかった。終電を逃すと、そのままネットカフェへ行く。

飲み放題のドリンク、フラット席、薄い毛布。壁越しに聞こえるいびきや、マウスのクリック音。

そういう音のほうが、むしろ安心できた。


寝て、起きて、バイトへ向かう。働いて、また寝る場所を探す。

そんな日々が、もうどれくらい続いているのか、未来にもわからなかった。


でも、不満はない。ただ、何も望まないだけだった。


アルバイトも、最初の頃こそ必死だった。

朝と夜で掛け持ちをして、休みもほとんど取らず、眠気を誤魔化しながら働いた。


月に20万円以上稼ぐ時もあった、「私でもやればできるじゃん」と少しだけ笑ったこともある。


けれど、それがずっと続くわけもなかった。職場の人間関係、シフトの圧、深夜の通勤。

ひとつひとつが小さな棘のように蓄積して、未来の心をじわじわと削っていった。


やがて働く理由は、「生きるため」から「ただ逃げないため」へと変わっていた。

そんな中で、未来にとってたったひとつの救いのようなものがあった。


——ソーシャルゲーム。いわゆるソシャゲ。


スマホひとつでどこでもできて、誰とも話さずに済む。

だけど、誰かとつながることもできる。


同じギルド(ゲーム内のチームの事)の誰かと協力し、チャットで話し、時には朝方まで会話することもあった。


現実の未来は、いつも誰かの顔色をうかがっていた。

だけど、ゲームの中の“未来”は違った。


明るくて、気さくで、冗談も飛ばせて、誰かに頼られる存在。

そう振る舞っていれば、自分でも少しずつそのキャラになれる気がした。

たとえそれが偽りでも、誰かが自分に「ありがとう」と言ってくれることが、未来には救いだった。


ときには恋のようなものも芽生えた。

毎晩メッセージを送り合って、ゲームの中だけで『付き合っていた』相手もいた。


顔も本名も知らない。だけど、夜になるとその人のことばかり考えていた。


次第に実際に会うこともあった。だけど、そのたびに——「違う」と思った。

話し方。声のトーン。歩き方。笑い方。

どれも、ゲームの中で想像していた“彼”とは違っていた。


しかも、その男たちは結局は、体目当てだった。

最初は優しくしてくれても、ホテル街を歩いているうちに、だいたいわかる。

「飲み直そうよ」「ちょっと休もうか」

そう言われた時点で、心の中の何かがスッと冷める。


会えば会うほど、未来は現実の相手から心が離れていった。

それが、毎回だった。


現実は静かに崩れていく一方で、

未来の心だけは、ゲームの中で何度も“生き直し”ていた。

けれど、何人目かに会った男は、これまでと少し違っていた。

初めて会った日も、ゲームの中と同じように優しかった。

無理に距離を詰めることもなく、笑って話を聞いてくれて、同じ話題で盛り上がった。


——その日は、それだけのつもりだった。


「また会ってくれる?」

別れ際、そう言われて、未来は思わず頷いていた。


(……私もまた会いたい。……てか、帰りたくない)


それが、男の手だった。

帰り道、そっと差し出されたその手を、未来は疑うことなく握った。


そのままホテルへ行き、ふたりはひとつになった。

部屋の明かりは柔らかく、ベッドの中のぬくもりも、少しだけ本物のように思えた。


だが、未来はまだ——騙されたことに気づいていなかった。


翌朝。

目が覚めると、男の姿はもうなかった。


シーツは乱れたまま、当然、置き手紙もなければ、連絡もなかった。


怒りよりも、諦めのほうがずっと大きかった。

ホテルのフロントで精算を済ませたあと、未来は久しぶりにアパートへ帰った。


昼過ぎの陽射しはやけに明るくて、駅のホームの雑音が遠くに感じた。


(やっぱり……)


思考の底で、かすかに呟く声があった。

(やっぱり、私がバカだった)


部屋に着いても、何もする気になれなかった。

カーテンを閉めて、布団をかぶって、何も考えないように目を閉じた。


でも、しばらくして、スマホに手を伸ばしてしまう。

画面を見つめながら、未来はまた、新しいイベントの通知を開いた。


最近は、バイトも減らした。

生活費をまかなうだけで、もう無理をしてまで働こうとも思わなくなった。

ただ、ゲームへの課金はやめることが出来なかった。


(もう、どうでもいいや)


そのひとことが、すべてのきっかけだった。


そこから——未来は、少しずつ壊れはじめた。

ゲームは、相変わらず続けていた。

ギルドチャットにも顔を出していたし、イベントにもそれなりに参加していた。

でも、仲良くしていた人たちとは、もう“合わなかった”。


馴れ合いも、励ましも、あたたかい言葉も、どこか薄っぺらく感じられた。

誰かに好かれるためのやりとりが、無性に億劫(おっくう)だった。


その代わり——未来は、別の目的でログインするようになっていた。


“ヤリ目の男”を探す。

それだけが、ゲームの中の新しい意味になっていた。


もちろん、あからさまな金額交渉なんてできない。

通報されたら終わりだし、そもそもそんなことに正面から応じてくる人間は少ない。


だから、まずは今まで通り、それとなく仲良くなる。会話の端々、反応の仕方、メッセージのテンポ。

相手が何を求めているかを慎重に見極める。


そして、確信が持てたら、少しずつ私生活の話を匂わせていく。


「今月バイト代少なくてさー」とか、

「最近ちょっと寂しいんだよねー」とか。


反応が良ければ、うまくLINEやSNSに誘導する。

そこで“交渉”に入る。


直接的ではないけれど、言葉を選んで、タイミングを見て、相手の欲望をほどいていく。

それが、未来の新しいスキルになっていた。


そんな生活を、未来は一年ほど続けていた。アルバイトは、もうすべてやめていた。

今の生活には、必要なかったからだ。


稼ぎは——もちろん、男たち。


欲望を満たしてやれば金をくれた。

未来が何かを要求する前に、財布を出す者も少なくなかった。


若い男たちは、週末に来ることが多かった。

サラリーマンや既婚者は、むしろ平日のほうが多かった。

誰にもバレないように、昼間の空いた時間に、サラッと現れて、サラッと消えていった。


未来は、そんなパターンを完全に把握していた。


必要なときに、必要なだけ。

稼ぎたい時に稼ぎ、会いたくない日はスマホを機内モードにして寝ていた。


空いた時間のほとんどは、何かしらのゲームをして過ごしていた。

ソシャゲ、据え置き、PC、スマホ。ジャンルも形式も問わない。

戦うでもなく、勝つでもなく、ただ没頭して、時間を溶かしていた。


誰とも本気で話さない。

誰にも期待しない。

何も望まない。


でも——

何かが少しずつ削れていってるような感覚だけは、未来自身、うすうす気づいていた。


その日は、週末。

30代の男と会う予定だった。


未来にとっては、いつも通りの“消化試合”みたいなもの。

サラッと会って、サラッとやって、サラッとお金をもらえればそれでいい。

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