第四章 幽霊客船の謎――二年前
20.
はねる水しぶきが、陽射しにきらきら瞬いた。
広々としたプールの中では、黄色い歓声がいくつも飛び交っている。躍動する色とりどりの水着が、目に鮮やかだ。
それはさながら美しい妖精たちの戯れる、楽園の島を訪れたよう。ビーチチェアに長々と身を横たえたまま、まぶたの重みが徐々に増していくのを感じる。
〈エブタイド〉で昼食を終えたあと、わたしは水着に着替えて屋上デッキのプールを訪れた。腹ごなしのひと泳ぎでほどよく思考も弛緩し、このまま午後のお昼寝としゃれ込みたいところ――だったが、あいにくといまのわたしには、なにを差し置いても取り組むべき課題がある。
発端は昨夜、わたしが夢うつつのなかで耳にした、誰かがこの〈ゴッデス・アルテミス〉号から海に落ちる音。転落現場と推定される屋上デッキで見つかった〈ブラウニー〉のボタンにより、転落の被害に遭ったのはクルーズ客のひとり、榊竜一であると考えられた。
ところがここに、予想外の証言がもたらされる。榊竜一とともにクルーズに参加した、大学時代のスキー部仲間の横江田結衣が今朝早く、船内で当の竜一を見かけたというのだ。何時間も前に海に落ち、おそらくはその際に死亡したであろう、彼の姿を。
転落死した榊竜一が、幽霊となって〈ゴッデス・アルテミス〉号の船内に戻ってきた。そうとでも考えない限り、もっともらしい説明のつかない怪現象。
――だけど、ありえない。
わたしは脳裏でゆるゆるとかぶりを振る。
幽霊などと――死んだ人間が現世に戻ってきて姿を見せたなどと、考えるわけにはいかない。それは、科学の支えのもとに繁栄を極めた現代社会において、あってはならない誤りだ。
どこかに錯誤がある。わたしたちのなかに生じた些細な認識のずれが、この不可思議な謎という形をとって表出している。
実のところ、わたしはもうヒントをつかんでいる、はずだ。
今日になって見聞きしたなにかが、わたしの頭脳に引っかかっている。その引っかかりが、謎を解くカギになっている気がする。
いったいなんだ?
それは誰の、どんな言動だった?
「……ねむ」
噛み殺そうとして殺しきれなかったあくびが、間抜けな空気の震えとなって口から漏れた。
やはり、ひと眠りしたほうがいいだろうか。そのほうが脳もリフレッシュされて、新たな閃きが得られるかもしれない。
考え直し、ゆったり目を閉じようとしたところで、
「藤沢さーん!」
元気いっぱいの呼び声が聞こえて、わたしは閉じかけた目を開いた。
首を巡らせば、更衣室のほうからぱたぱたと駆け寄ってくる嶺奈ちゃんの姿がある。明るいブルーのワンピースの水着が、スレンダーな身体によく似合っていた。
「やァ、嶺奈ちゃんも食後の運動か」
ビーチチェアで上体を起こすわたしの前で、嶺奈ちゃんは足を止め、ぷっと口を尖らせる。
「さっきこの屋上デッキに上がってみたら、プールで泳ぐ藤沢さんを見かけて、それで慌てて着替えてきたんですよ。プールで遊ぶならどうして誘ってくれなかったんですか」
「なるほど、それは水臭いことをした。ごめんごめん」
どうやら、お嬢さまはプールデートをご所望だったらしい。
嶺奈ちゃんはわたしの全身を眺め回し、なにやら称賛のまなざしを浮かべる。
「それにしても藤沢さん、けっこう大胆な水着ですね」
「……そうかな」
わたしが着けていたのは、シンプルな白の三角ビキニ。未千留さんに勧められて買った品だが、言われてみれば確かに腰周りのラインなど、少し思い切っているかもしれない。
一方の嶺奈ちゃんは、水着こそフリルの多いガーリーなデザインであるものの、胸はわたしと比べてもみごとなボリュームを主張しており、なかなか目に毒な艶姿である。
こちらの神妙な顔つきを、彼女はどう受け取ったのやら、
「もしかして藤沢さん、まださっきの事件のことを考えてるんですか? 昨夜海に落ちたはずの男の人が、朝の船内で目撃されたっていう」
「それはそうだけど、嶺奈ちゃん、わたしのことは理瑚でいいってさっきも……いや」
わたしはおもむろにプールサイドの床に足を下ろすと、すたすたと水際に歩いていった。
「藤……理瑚さん?」
背後からの怪訝そうな呼びかけには答えず、段を下りて水中に身体を沈め、そのまま泳ぎ始める。
プールで遊んでいる人たちの合間を縫いつつ、クロールで端から端まで一往復。
耳もとで泡が囁く。青い静謐に、わたしの意識がぽっかり浮かぶような心地がする。
やがて辺りは黄金色の煌めきに包まれ、わたしは至るべき場所に至ったことを悟る。
プールから上がったわたしはビーチチェアに戻り、タオルを取り上げて身体を拭いた。
「理瑚さん、泳ぐのすごくうまいですね。プロの選手みたい」
無邪気に声をかけてくる嶺奈ちゃんに、わたしは真面目な顔を向ける。
「ごめん、嶺奈ちゃん。プールデートはまたでいいかな。ちょっと行くべき場所ができた」
彼女は落胆で顔を曇らせかけたが、すぐはっとしたように目を見開いた。鋭い子だ。
「ひょっとして理瑚さん、事件の謎が解けたんですか?」
「まあね。嶺奈ちゃんがヒントをくれたおかげだよ」
にっこりと笑いかけると、不思議そうな様子の彼女を置いて、わたしは颯爽とプールサイドを歩き出した。
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