18.

 町の目抜き通りを、東に向かって歩いた。


 道はやや下り坂になっている。吹き抜ける風にははっきりと、潮の香が嗅ぎ取れる。


 どこまでものどかな空気を漂わせる町並みに、おれはある種の厳かさを感じていた。


 もっとも、ここはあくまで藤沢理瑚の遺体が発見された町であって、生前の彼女にゆかりがある地ではない――少なくとも、おれの知る限りでは――ため、こんなものは気のせいだ。


 やがておもむろに視界が開け、眼前に穏やかに広がる紺碧の海原があった。


 陽光が一面に煌めき、おれは思わず目を細める。


 まるで天国のように美しい景色だと思った。


 片側一車線の海岸通りを横断し、コンクリート造りの階段を下りれば、すぐ砂浜だ。


 行楽客が何人もいて、思いおもいに白い砂の上を散策している。その中に交じり、波打ち際と五メートルほどの距離を保って南へ歩く。


 ゆったりと響く波音が、耳に優しい。泳ぐにはかなり早い時期だが、足先を海水に浸けてはしゃぐ小さな子供の姿が、ちらほらと見える。


 それにしても、分かりきっていたこととはいえ、こうして浜を見て回ったところで、まったくといっていいほど閃くものがない。そもそも、藤沢理瑚の遺体が発見されたのが浜のどの地点なのかさえ、おれは知らないのだ。なんだったら、ここと違う浜の可能性もある。


 ――まあいいさ。何事だって、千里の道も一歩から、だ。


 まずは、実地の空気を肌で感じること。


 深い洞察に必要なのは案外、明確に言語化された理屈ではなく、何気ない知覚情報の膨大な集積なのだ、と、それこそふわっとした理屈で己を励ます。


「……ん?」


 ふと、おれは足を止めた。


 前方、波打ち際の近くに、ひとりの若い男がたたずんでいた。


 すらりとスタイルがよく、黒っぽいジャケットと細身のパンツがよく似合っている。


 さらさらの黒髪に、色白の端整な顔。


 どこかで見たような気がするが、おれの知り合いにはいないはずだ。有名なタレントかなにかだろうか。


 男はその横顔になんとも神妙なまなざしを浮かべ、海原の方角をまっすぐに見据えている。


 おれが目を留めたのはなにも美貌ゆえというだけでなく、彼がまとっているどこか哀しげな雰囲気が、周囲の行楽客たちのにぎわいから浮いて感じられたからでもあった。


 ひんやりとした海風がやってきて、おれたちふたりに吹きつける。


 ふいに男が、おれのほうを向く。


 しっかりと視線が合ってしまい、気まずさからおれはやや身を固くする。


 透き通った、知的な瞳だ。やはり既視感がある。


 彼はすぐに視線を外し、そのまま踵を返して浜を横切っていった。


 ――……なんだったんだ?


 男の黒い背中が海岸通りへの階段を上がって見えなくなると、気を取り直しておれも再び浜を歩き出した。


 さらに五十メートルほど進んだところで、砂浜は突き当たりになっていた。その先はコンクリートの岸壁が、緩やかな弧を描いて伸びている。


 緑に覆われた岬が、海に向かって突き出しているのが遠目に窺えた。岬の先端だけは岩肌がむき出しで、ずいぶん険しい断崖になっているようだ。


「……さて」


 立ち止まって腕時計に目をやると、正午を過ぎたところだった。


 にわかに空腹を覚える。まだほとんど町に着いただけで、ろくな成果が得られていないが、ひとまず腹ごしらえをすることに決める。


 海岸通りに戻れば、折よく車道の向かいに飲食店の看板が見つかった。


〈しのだ食堂〉という名前の、年季の入った店である。


 中は狭く庶民的なインテリア。雰囲気としては、文芸部御用達の〈たこ悦〉に似ている。


 縦に三つ並ぶテーブル席の真ん中に腰を下ろすと、年配の小柄な女性が熱い湯呑みを運んでくる。どうやら、彼女ひとりで店を切り盛りしているようだ。


 メニューの中身は丼物やそば、うどんが各種にあとは若干の定食と、この手の店によくあるラインナップ。おれが親子丼を注文すると、店主の女性はのんびりした足取りでカウンターの内側に戻っていく。


 店内におれ以外の客の姿はない。角の棚に置かれたタブレット端末から、いま人気の漫才コンビのハイテンションなしゃべくりが流れてくる。


 おれはスマホを取り出して地図アプリを開き、なんとなく戸澄町の地理を調べ始めた。


 外の浜で目にした岬は、昏ヶ崎くれがさきというそうだ。東に向かって突き出しているのに「昏」とはこはいかにと思ったが、突端に向かう道の途中に大きめの霊園があるのと関係しているのかもしれない。


 ほかには、おれが降りた駅の裏手に〈密室堂古書店〉という店があるのが、ミステリマニアとしては気になる。帰りがけに少しのぞいてみようか。


 やがて、注文した親子丼が運ばれてくる。


 卵がふわとろで、予想していた以上に美味しかった。


 幸福感とともに舌鼓を打ちながらふと、こんな呑気にメシなんか食っていていいのだろうかと思う。


 ガラガラと、背後で店の戸が開く音が聞こえ、振り返ったおれはとっさに驚いてしまった。口にものが入っていなかったら、「あっ」と声を上げていたかもしれない。


 店に入ってきたのは、ついさっき浜で見かけた、黒っぽいジャケットの美青年だったのだ。


 おれは口の中に食べ物を詰め込んだまま、申し訳程度に会釈をする。だが、相手は気づいていない様子で、手前のテーブル席に腰を下ろした。


 湯呑みを運んできた店主に、男は天ぷら定食を注文する。


 客がひとり増えたところで、店内の活気が増すわけでもない。おれはなおも卵のふわとろを楽しみつつ、ひとり淡々と食事を進める。


 丼が空っぽになり、湯呑みのお茶を手にくつろいでいると、店主が食器を片づけにきた。


 改めて見ると、穏やかな顔つきの優しそうな人だ。


「あの、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」

「はい、なんでございましょう」


 彼女が微笑むと、両目が消えてなくなる。


 おれは若干のためらいを覚えたが、意を決して尋ねた。


「二年前の夏に、ここの浜で高校生の女の子が亡くなったそうですね」


 店主の微笑みにかすかな影が差した。


「……ええ、まあ。まだお若いのに、かわいそうなことでした」


 痛ましげな口調から、彼女が事件当時の経過を間近で見ていたことが察せられた。


「なんでも、殺人事件だったらしいですね。犯人は見つかったんでしょうか」

「……さあ。わたしも詳しくは知らないですけど、たぶんまだ捕まってはいないんじゃないかと思いますよ」


 店主の態度は目に見えて硬化している。


 どうも切り出し方を間違えたかもしれない。


「その、実はおれ、事件について知りたいことがありまして」


 そのとき、背後でがた、と物音がした。


 何気ない様子で顔を向けた店主が、どきりとしたようにやや目を見開く。


 彼女がなにに驚いたのか、確かめようとおれが振り返るより早く、


「おい、きみ。やめないか」


 低い声音とともに、あの男性客がおれのかたわらに立った。


「店主さんが困ってるじゃないか。そんなつまらない詮索をして、どういうつもりだ」


 糾弾するような目つきで見下ろされ、おれのなかに反発が湧いてきた。どこの誰か知らないが、イケメンにいきなり正義漢ヅラされる筋合いはない。


「うるさいな、横から割り込んできたりして。つまらない詮索なんかじゃない。おれは真剣に、藤沢理瑚さんのことを知りたいと思ってるんだ」


 おれの反駁に、意表を突かれたように青年は絶句した。


「……きみ、理瑚とどんな関係なんだ」


 おや、と思いつつも、平静を装っておれは聞き返す。


「そういうあんたこそ、彼女とどんな関係なんだ?」


 青年はためらう様子だった。戸惑いが瞳の奥を不安定に波打たせている。だが、やがて心を決めたように、彼は唇の端に力を込め、


「ぼくの名前は、藤沢瑛介。二年前に死んだ藤沢理瑚は、ぼくの従妹だ」

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