月の船が還るとき
花守志紀
プロローグ
1.
あとから知ったのだが、おれが
八月の半ばにしては珍しく、日没とともにうっすらした涼気が町に漂い出していた。まさに、絶好の肝試し日和とはいえるのかもしれなかった。
くねくねと入り組んだ廊下の突き当たり、八畳ほどの洋間に彼女の姿はあった。
黒髪に端整な面立ち、真っ白なワンピース。
「やあ。気持ちのいい夜だね」
ベッドの縁に腰かけ、少女は気さくに片手を上げてみせる。彼女が決して血の通った生者ではないことを、なぜかおれは瞬時に理解できていた。
――やっぱり出た! 幽霊屋敷の白い少女!
とっさに踵を返し、ドアノブに手をかける。ところがドア自体はおろか、ノブすらびくともしない。ノブには内にも外にも、錠の類いはついていなかったはずだ。そもそもおれはいま、ドアを閉めていただろうか。
「あっはっは。退屈していたところに、せっかくやってきてくれたお客さまなんだ。むざむざ帰す手はないでしょ」
背後で聞こえる軽やかな笑い声に、おれは呆然とドアノブから手を離した。
振り返れば、彼女の姿は変わらずベッドの端にある。
「そう慌てなくても、捕って食ったりしないよ。呪ったり取り憑いたりということもない。まあもう少しイケメンだったら、生まれ変わってみるのもアリだけどね。とりあえずかけて、わたしの話し相手になってくれないかな」
彼女が座るかたわらには小さな白い円卓があり、卓上に置かれた古風な細長いデザインの手提げランプが、室内をぼんやりと照らしている。右手に持っていた懐中電灯のスイッチを切り、おれは足を踏み出す。薄いピンクの絨毯のやわらかい毛並みが、靴下越しに感じられる。
白色の壁紙に濃紺のカーテン。木のタンスとクローゼット。天井近くまで高さのある空っぽの本棚が二台。空き家の割に、内装に荒れた様子はあまりない。半年ほど前までは人が住んでいたというから、当然かもしれないが。
ベッドは部屋の左奥の角に枕側をくっつけるように縦に置かれ、横手には勉強デスクがある。彼女が促しているのはデスクの前の、青い座面の回転椅子だ。
円卓の脇を通り抜け、おっかなびっくり椅子の座面に腰を下ろす。きい、と小さな音が鳴ったものの、回転椅子は申し分のない強度でおれの体重を支えてくれた。
「飲み物も出せなくて悪いね。まァ、せいぜいリラックスしてほしいな」
悠然と微笑む少女を、卓上のランプの明かり越しにおれは観察する。
きれいなひとだった。
見た目の年齢はおれとそう変わらないだろう。豊かな膨らみを持たせた濡れ羽色の髪。色白の細面に、きりっとした知的なまなざしがよく似合う。シンプルなデザインの白いワンピースに包まれた肢体はすらりと細く、引き締まった健康美を感じさせた。
「えぇと、藤沢さん」
おずおずと切り出すおれに、少女は目をぱちくりさせる。
「わたしたち、どこかで会ったことあるっけ?」
「いや……このお屋敷の人ですよね。門の表札に名前があったので」
「……なるほど。言われてみれば当たり前か」
得心がいった様子の少女は、ふいになにかを呟く。りこ、と言ったように聞こえた。
「え、なんですか」
「藤沢理瑚。わたしのフルネーム。理屈の理に、珊瑚の瑚」
「藤沢理瑚、さん」
「そ。きみの名前は?」
「おれは
「史也くん、ね。よろしく。史也くんは高校生?」
「はい。高一です」
「なんだ、わたしと同じ――というか、生前のわたしと同じだ。ならタメ語でいいよ」
お互いの自己紹介が済んで、藤沢理瑚は満足げだ。おれは改めて質問を試みる。
「理瑚さんはその、幽霊なん――なの?」
「ん。まァ、そういうことになるね」
あっけらかんとした口調とともに、理瑚さんはうなずく。
信じられない思いで、おれは少女をまじまじと見つめた。くっきりと鮮明なそのシルエットは、幻などでは到底ありえない。裸足でこそあるものの、両足もちゃんとついている。
辺りがやけに静かに感じる。
はぐれた部長たちはいまごろ、なにをしているのだろう。まさかおれをおいて帰ったということはないだろうが、それほど広いわけでもない邸内で、いまだこの部屋に近づいてくる気配もないのは少し不自然だ。
そんなおれの思考を読んだのやら、理瑚さんは落ち着いた微笑を浮かべてみせ、
「お仲間たちの心配はいらない。何事もなく幽霊屋敷探検を堪能してるよ。もっとも、ここを見つけることはできないけどね。あんまりにぎやかすぎるのは、わたしも得意じゃないから」
どうやら、侵入者はもれなくこの少女の手のひらの上のようだ。おれは観念して、きしみを上げる回転椅子の上で居住まいを正した。
「理瑚さんは、なんで死んだんだ?」
「おォ……史也くん、なかなかぶっちゃけるね。大丈夫? デリカシーなさすぎると、女の子にモテないぞ?」
「あ、いや、そんなつもりは」
おれはつい慌てた。
幽霊に対するエチケットなど、知らなくても仕方ないとは思うが、デリカシーがないという指摘には多少思い当たる節がある。
もっとも、当の幽霊は別段気を悪くした様子もなく、
「ま、改まって語るほどの話でもないけどね。ちょっと人を救っただけさ」
「人を、救った……?」
「女の子をね。実にキュートで、チャーミングな子だった。彼女がいまも元気に生き続けてくれているのなら、わたしがこうしてひとり寂しく退屈を持て余しているのも、甲斐があったというものかな」
「…………」
それは当人が言うよりもだいぶ、いわくがある話なのではないか。
しかしこちらが食い下がるより早く、彼女は目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「ねぇ、史也くんの話を聞かせてよ。死んだ人間の昔話なんかより、いまを生きてる人間のリポートのほうが、ずっと価値があるんだからさ。今日ここにやってきたのは、クラスメイトの集まり?」
「いや。部活だよ。おれ、文芸部に入ってて」
「へぇー、意外とアクティブなことする文芸部なんだね」
「部長の趣味なんだ。せっかくの夏休みだから、肝試しがてらって。おれは反対したんだけどさ、普通に不法侵入だし」
言い訳っぽく愚痴るおれに、家人であるはずの理瑚さんは愉快そうに含み笑いをするだけで、
「史也くんってば、ずいぶん優等生なんだね。わたしは別に気にしないけどな。本音を言えば、どうせ取り憑くならこんな狭苦しい場所じゃなくて、もっと眺めのいい海辺なんかがよかったし。史也くん、ちょっとオススメの海とかあったら教えてくれない?」
幽霊にしてはあまりにからりと晴れやかな態度に、おれはつい口もとをほころばせていた。
気づけば、全身の緊張もすっかり解けている。
「理瑚さんも、読書とか好きなのか?」
尋ねるおれの視線を追って、彼女は大きな空っぽの本棚二台を振り返った。その横顔に少しだけ、寂しげな色が浮かぶ。
「まァね。そこそこ自慢の蔵書があったんだけど、すっかり処分されてるね。一割でも残しといてくれたら、わたしももう少し退屈せずに済むのになァ。史也くんはどんな本を読むの?」
「ん、ほとんど小説だよ。ミステリがメインかな。ディクスン・カーとか大好きなんだ」
「へぇ、カーはわたしもけっこう好き。そこにも何冊かあったよ。ベストはやっぱ『火刑法廷』かな。それこそ、いまここで読んだら雰囲気満点じゃない?」
「違いないな。じゃあ、理瑚さんも小説をよく読むんだ」
「うん。ミステリはかなり読んだよ。ハードボイルドも好きだし、冒険物とか一時期めっちゃハマってたなァ。ジュール・ヴェルヌがお気に入りでさ」
気づけば、おれたちはすっかり小説談義に夢中になっていた。
豊富な読書量に加え、その一冊一冊に対する深い読みで、理瑚さんはたびたびおれを唸らせた。楽しそうに笑い、きらきら瞳を輝かせる彼女が幽霊であることを、おれはいつしか忘れた。
「――なるほど、ゼロ年代のラノベは、おれもあまり読めてないからな。ちょっと注意して見てみるよ。そういえば同期が、今年の『
「フォークロア?」
きょとんとする理瑚さんに、おれは苦笑とともに説明する。
「ごめんごめん。ウチの部誌のタイトルだよ。学校の名前が報久学園だから、それをもじって『報久ロア』ってね」
納得してくれたかと思いきや、おもむろに彼女はむっつりと唇をつぐんでしまった。
なにか気に障ることを言っただろうか。不安を覚えるおれを彼女はまっすぐに見つめる。
「ねえ、史也くんにひとつ、お願いがあるんだけど」
「お、おう。なんだ?」
いやに強い決意がこめられたまなざしに、おれはどきっとなる。
「おそらく来年、
思いがけないお願いだった。
彼女の真意に素早く推測を巡らせながら、おれは問いを重ねる。
「気にかけるって、具体的になにをすればいいんだ?」
「それはわたしにもまだ、はっきりとは言えない。ただ、高校に上がった彼女が、なんらかの危険な事態に巻き込まれる可能性がある。史也くんには、そんな事態の出来に目を光らせておいて、いざというときには嶺奈ちゃんのことを護ってもらえたらと思うんだ」
理瑚さんの態度は真剣そのものだが、言っていることはひどく漠然としている。出会ったばかりではあるものの、彼女らしくない言い方だとも感じた。
「危険な事態ってなんだよ。命の危機とか――そうか」
喋っていておれは気づいた。
「その、月上嶺奈って子なんだな。理瑚さんが自分の命と引き換えに救った女の子が」
一心に瞬く彼女の双眸が、雄弁に肯定を物語っていた。
「教えてくれ。あなたたちの間にいったい」
思わず身を乗り出した拍子に、膝が円卓の縁に勢いよく当たった。
卓が大きく揺れ、手提げランプが倒れて床に落ちたと思うや、部屋が暗闇に閉ざされる。
「しまった! 理瑚さん――」
急いで手に持っていた懐中電灯をつけたおれは、その場で凍りついてしまった。
LEDのまばゆい白光に浮かび上がった室内には、おれ以外の誰もいなかったのだ。
ベッドの上の、さっきまで少女が腰かけていた位置を見やるが、かけ布団の表面はきれいに整えられ、しわひとつない。
「理瑚さん?」
少女の名前を呼びながら、おれは意味もなく部屋中にライトを走らせる。
ばたばたと慌ただしい足音が外から聞こえてきた。
ふいに耳もとで囁く声があり、おれははっとなる。直後、勢いよく部屋のドアが開かれて、懐中電灯を手にした
「史也、ここにいやがったか! 部長!」
慌ただしい足音がいくつも重なり、彼のあとからほかのメンバーも続々と姿を見せる。
「……こんな部屋、さっきはあったかしら。牧野くん、ずっとここにいたの?」
いつになく顔を青くさせて、
おれはとっさに腕時計を見た。なんと、部長たちとはぐれてからすでに一時間あまりが経過している。
「もう、心配したんだから! 牧野くん、どれだけ呼びかけても返事してくれないし、靴があるから先に帰ったというのもありえないし」
「すみませんでした、部長」
半ば上の空で謝りながら、おれは屈んで床に落ちた手提げランプを拾い上げた。
オフになっていたスイッチを入れるが、明かりはつかない。
「……なんだこれ。電池が入ってないじゃないか」
おれの手からランプを取り上げた勇晴が、底のフタを開けて拍子抜けしたように言う。
「あれ、そんなはずは」
「史也が持ち込んだやつじゃないよな?」
おれと勇晴の手を行き来するランプを、百城部長は気味悪そうに眺めていたが、
「とにかく、牧野くんが無事に見つかってよかったわ。時間もいいところだし、そろそろ帰りましょう。なかなかスリリングな夜だったんじゃない」
部長の音頭に否やの声を上げる者もなく、部員たちはぞろぞろと部屋を出る。最後尾のおれは戸口で足を止め、無人になる室内を振り返った。
先ほど、ドアが開かれる直前に耳もとで囁かれた声が脳裏によみがえる。
――わたしの代わりに、頼んだよ、史也くん。
服の端を摘まんでくる手を振り払うように、おれは室内から顔を逸らして歩き出した。
*
この真夏の夜の冒険からおよそ半年後、藤沢邸は取り壊された。
すっかり更地になってしまった敷地の周囲では、もはや白い少女の幽霊の目撃譚もまったく聞かれなくなった。
月日は流れ、冬が去って迎えた四月。
おれは報久学園の二年生になった。
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