薄墨色のカゲロウ

黒羽ユイ

第1話 黒く塗りつぶされた記憶

幼少期の記憶を辿ろうとしても、記憶があいまいに黒く塗りつぶされていて、断片しか思い出せない。


私の幼少期は、暗闇の先にある得体のしれないモノへの恐怖と、誰も理解してくれない孤独の中にあった。

曾祖母の話によれば、物心つく前の私は、昼も夜もなく泣き続けていたという。そのため、何度も「疳の虫封じ」に村の呪い師の元に連れて行ったそうだ。呪いをしてもらうとしばらくの間は静かになるが、また幾日もしない間に施した呪いが消えると激しく泣き叫び、家族も私の扱いに疲れていたそうだ。

──まるで、何かが見えているかのように。


成長するにつれて、泣き声は怒りや苛立ちへと姿を変えた。

母は「手がかかる子だった」と私によく言っていた。

私自身も、その“理由のない苛立ち”に苦しんでいた。

何もしていないのに心がざわつき、誰もいない空間に気配を感じ

いつもそこに見えない何かがいる様で、自宅にいても、外にいても息が詰まる。


“怖がりだな~”


父はそう言って笑っていた。

でも私は知っていた。これは“ただの怖がり”ではない、と。


村の道を歩いていても、遠足で隣町の公園に行っても、

そのざわつきは消えなかった。

通学路にある雑木林、崖下の川、使われなくなった農作業用の小屋──

そこには何かがいる。気配ではなく、“じっとりとした空気の重さ”があった。


それは言葉にできない違和感。

心の内側がきしむような、絞られるような感覚。

見えはしないのに、視界の端で何かが“揺れて”いた。


夜になると、家の中の空気はさらに澱む。

天井からきゅ、きゅっ、と何かを擦るような音が響く。

家族も気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、

誰もその音には触れなかった。


私は中学を卒業するまでお手洗いにも一人で行けなかった。

一人きりの留守番も、登下校すらも一人では無理だった。

年相応に一人きりでも平気な妹を見て

自分が“どこかおかしい”のだと感じていた。


それでも日常は続いた。

ただ、私はその感情に“蓋”して生活することに慣れただけだった。

怖さが消えたのではない。感じないふりをしていたにすぎない。


──高校生になったある晩のことだった。


私は、自分の部屋の床が一部だけわずかに軋むことに気づいた。

何となく、そこを踏むたびに胸がざわつく。

夕食後部屋に戻った私は、マイナスドライバーを手に持ち

そっと床板の端に添えて持ち上げた。


そこには、埃にまみれた封筒がひとつ。

中には、黄ばんだ古文書の切れ端が入っていた。


墨で書かれた文字はかろうじて読めた。


「昭和拾四年 弐月 この家に“血の道”が引かれた」


何か分からない胸のざわめきを感じた瞬間、

頭の奥で、あの「きゅ、きゅっ」という音が、はっきりと聞こえた。


続くように、誰かの声がかすかに囁いた。


──“まだ、終わっていない”


私は、声も出せず、ただ床の上に立ち尽くした。

ずっと感じていたこの恐怖は、やはり“私の中だけ”のものではなかったのだ。


そして、それは今も──私のすぐ傍にいる。

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