第4章「忘れられた名前」

夢の中の団地は、誰もいなかった。

灯りもなく、音もない。風も雨も止んで、ただ世界がそこにあるだけだった。


私は五号室の前に立っていた。

ドアは、最初から少しだけ開いていた。

まるで、私が来るのを知っていたかのように。


中に入ると、あの子がいた。

ちゃぶ台の横に座り、アルバムをひらいている。

昨日と同じような姿。けれど、少しだけ雰囲気が違って見えた。


「来たね」


彼女は笑ったけれど、その笑みはほんの少し寂しげだった。


「もう、全部忘れてる?」


私は何も言えなかった。

でも、それが「答え」だったようで、彼女は静かにうなずいた。


「じゃあ、ひとつだけ教えてあげる」


彼女はアルバムをひらき、あるページを指差した。


そこには、小さな紙切れが貼ってあった。

写真ではなかった。短い文章だけが、鉛筆で走り書きされていた。


「名前を忘れると、消えるよ」


私は読みながら、なぜか背中がひやりとした。

言葉にできない不安が、ゆっくりと首のあたりを這い上がってくる。


「……これは、誰が書いたの?」


「わたし」


彼女はすぐに答えた。

けれど、その「わたし」が、“彼女”なのか、“わたし”なのか、もうよく分からなくなっていた。


「あなたの名前、思い出せる?」


彼女が訊いた。

唐突で、単純な質問。


なのに、口が開かない。


「ほら、言ってみて」


彼女は微笑んでいるけれど、その目の奥に、かすかな焦りが見えた。


「……」


「フルネームじゃなくてもいいよ。苗字だけでも。呼ばれてた名前でも」


私は、思い出そうとした。

家で、学校で、誰かに呼ばれていたはずの音。


でも、その音が、口の中でぼやけていく。

喉まで出かけたのに、かすれて消えていった。


彼女は、立ち上がった。


「じゃあ、わたしが言ってあげる」


そう言って、彼女は私の耳元に口を寄せる。


でも──何も聞こえなかった。


音がした気はした。けれど、意味がなかった。

言葉は確かに発せられたのに、それが記号にしか聞こえなかった。


気づいたときには、部屋に私ひとりだった。


ちゃぶ台の上には、もうアルバムもなかった。

ただ一枚、小さな紙切れだけが置いてある。


見覚えがある筆跡で、こう書かれていた。


「あなたが忘れても、私はずっとここにいるよ。」


その文字だけが、やけにくっきりと目に焼きついた。


目を覚ますと、朝だった。

けれど、団地の空気が少しだけ変わっていた。

母の声も、今日は聞こえなかった。


いや、いるはずなのだ。台所に、いつもどおり。

でも、どこか遠い。


学校で名簿が回されたとき、自分の欄に違和感を覚えた。


苗字が、自分のものじゃないように感じた。

名前の漢字が、ほんの少し違うように思えた。


「これ、私……だよね?」


隣の席の子に訊こうとしたけれど、声が喉に引っかかって出なかった。


その夜、私は紙に自分の名前を書いて、机の引き出しにしまった。


誰にも見せないように。

そして、忘れないように。


でも、それを「書いたこと」だけを覚えていて、

「何を書いたか」をもう思い出せなかった。


──名前を忘れると、消えるよ。


その言葉が、ひと晩中、耳の奥で繰り返されていた。

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