空き部屋には、誰かがいる

さわこ

プロローグ「だれもいない部屋」

この団地の五号室には、誰も住んでいないはずだった。


引っ越してきたときに、母がそう言った。管理人も言っていた。ポストには何も入らず、名前のプレートは外されたままで、カーテンも、家具も、ないはずだった。


なのに──。


学校の帰り道、私はよく五号室の前で立ち止まる。

一階の角部屋。南向き。昼間は明るくて、風が通る。

カーテンが、揺れている。


夕方になると、部屋の奥にオレンジ色の灯りが点るのが見える。古い蛍光灯の色じゃなくて、もっと柔らかくて、温かい色。


おかしいな、と思いながら、私は今日もその部屋の前を通り過ぎる。

鍵がかかっているドア。何の音もしない。けれど、ほんの一瞬、誰かの気配がする。人がいるときの、空気の重さ。温度。視線。


──誰か、いる。


そう思って振り向いても、カーテンの隙間から見えるのは、ただ揺れる光だけ。人影はない。


「誰か住んでるの?」


夕飯の支度をする母にそう訊いたことがある。

母は少し黙ってから、「空き部屋よ」とだけ言った。


その言い方が、妙に冷たくて、それ以上は訊けなかった。


灯りが点るのは、決まって午後六時すぎ。

一度、部屋の前まで行って、そっと耳をあててみたことがある。

何も聞こえなかった。けれど、すこしだけあたたかかった。


まるでその扉が、誰かの体温を覚えているようだった。


私は知らない人が怖い。でも、「いないはずの誰か」にはなぜか惹かれる。

それはたぶん、自分のなかにも“いないはずの誰か”がいる気がするからだ。


名前の思い出せない誰か。

顔がぼやけたままの誰か。

声をかけたことのある気がする。けれど、名前を呼んだことはない。


五号室の前を通るたびに、そんな誰かのことを思い出す。


その人はたぶん、

今でもあの部屋に──いる。

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