第3話 記憶の渦

大学の講義室。

朝の光が、同じ角度で机を照らしている。

いつもと変わらない、静謐な空間。


佐藤健一、20歳。

昨日から、何かがおかしい。


交差点で足が止まった。

青信号なのに、前に進めなかった。

あの赤い影を見てから。


教授が前に立っている。

口は動いていない。でも、情報は流れてくる。

場を通じて、直接意識に。


『量子力学における波動関数の収縮は——』


健一は、いつものようにノートを取ろうとする。

でも、手が止まる。


なぜ、これを書いているのか?

誰の考えを、記録しているのか?


周囲を見回す。

同級生たちは、淡々とペンを動かしている。

同じ速度で。同じリズムで。

まるで、一つの生き物のように。


『——観測によって状態が確定する』


教授の「声」が続く。

その瞬間、健一の中で何かが弾けた。


観測。

そうだ、昨日の自分は「観測」したのだ。

赤い影を。そして、それによって——


手が震え始める。

ペンが、制御を離れて動く。

ノートの上に、意味不明な線が描かれていく。


いや、意味不明ではない。

それは、波形だった。

複雑に絡み合う、幾つもの振動の軌跡。


隣の席の女子が、健一を見る。

眉をひそめている。場の調和を乱す者への、無意識の反応。


でも、健一は止められない。

手が、意志とは関係なく動き続ける。


そして、描かれた波形の中に、顔が浮かび上がった。

見覚えのない、老人の顔。


『覚えているか』


声が、聞こえた。

いや、聞こえたのではない。

波形そのものが、語りかけてきたのだ。


教室が、揺れた。

物理的にではない。

でも、確かに何かの境界が歪んでいる。


健一は立ち上がった。

周囲の視線が集まる。

場の流れを乱す、異物として。


でも、もう関係ない。

彼の中で、堰が切れたように記憶が溢れ出す。


5歳の時、祖父と遊んだ記憶。

古いステレオから流れる、音楽。

「ベートーヴェンの第九だよ」と言った、祖父の声。


音楽?

声?


それらは、この世界には存在しないはずのもの。


教室を出る。

廊下を走る。

どこへ向かっているのか、自分でもわからない。

でも、身体は確かな目的地を知っているようだった。


大学の裏手。

古い倉庫。

学生は誰も近づかない、忘れられた場所。


扉を開けると、薄暗い空間が広がっていた。

そして、その中央に——


ピアノ。

埃をかぶった、グランドピアノ。


健一は、ゆっくりと近づく。

鍵盤に手をかざす。

もちろん、音は出ない。

この世界で、楽器は意味を失っている。


でも——


指が、鍵盤に触れた瞬間。

何かが、流れ込んできた。


祖父の手。

幼い自分に、ピアノを教えてくれた記憶。

「音楽は、心臓の鼓動から生まれるんだ」


健一の胸が、激しく脈打つ。

その振動が、指を通じて鍵盤に伝わる。

そして——


空間が、震えた。

音ではない。

でも、確かに何かが響いている。


涙が、頬を伝っていた。

なぜ泣いているのか、わからない。

でも、止まらない。


「見つけたね」


振り返ると、入口に人影が立っていた。

赤いジャケット。

ノイズ。


「君の中にも、波はあった」


彼女が近づいてくる。

そして、健一の隣に座る。


四つの手が、鍵盤の上で踊る。

音はない。

でも、二人の間に、確かな音楽が生まれていた。


「これが、私たちの始まり」


ノイズが言う。


「沈黙の世界に、波紋を起こす者たち」


健一は理解した。

自分は、選ばれたのではない。

ただ、思い出しただけなのだ。


本当の自分を。

本当の世界を。


そして、これは始まりに過ぎないことも。


倉庫の外では、いつもと変わらない静寂が続いている。

でも、その静寂の中に、新たな波が生まれようとしていた。


記憶という名の、波が。


(第三話・了)


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