第二章 ずれた日常 ⑧

 泰輝が姿を現したのは、それから五分ほど経過した頃だった。彼は別段急いでいるふうでもなく、淡々と足を進めながら、通りの向こうからこちらへと渡ってきた。服装はきのうと同じようにTシャツにジーンズだが、Tシャツは無地の黒である。

「泰輝くん、おはよう」

 正面に立ち止まった泰輝に、稜弥は声をかけた。

「稜弥さん、おはよう」

 相手は年下の同性だが、そんな彼に下の名前で呼ばれて、稜弥はなぜが胸の鼓動を感じてしまった。それよりも、プヨミの姿がないことが気になる。

「ところで、プヨミちゃんは一緒じゃないのか?」

「笛の練習をしたいとかで、途中でどこかへ行っちゃった」

「そうなのか」

 わずかな安堵を得たが、可能な限り残念そうな顔を装った。

「散歩に行くんだね。どこを歩くの?」

 などと聞かれたが、答えようがなく、稜弥は苦笑する。

「えーと、さて……どこがいいんだろう?」

「阿座斗町の一丁目から九丁目まで、全部歩いてみる?」

 不可能な距離ではないが、おとといの移動距離ときのうの移動距離の合計を考えれば、軽めに済ませたかった。

「もうちょっと短い距離にしようか」

「じゃあ、東へ行ってみようよ」

「まさか、海?」

 稜弥の脳裏に浮かんだのは、言うまでもなくヒトムシだ。

「ううん」泰輝は首を横に振った。「リミちゃんが番外地はだめ、って伝えてきたから、四丁目の端っこまで」

「阿座斗町のほぼ真ん中に一丁目があって、その北に二丁目、二丁目の東に三丁目、三丁目の南に四丁目、四丁目の南に五丁目、五丁目の西に六丁目、六丁目の西に七丁目、七丁目の北に八丁目、八丁目の北に九丁目……」

 リミのきのうの言葉を、稜弥は復唱した。おそらく、四丁目はこの五丁目の真東に隣接するのだ。

「わかった。そうしよう」

 稜弥は言った。


 泰輝が先導し、稜弥はそれに続いた。通りを渡り、家々の間の路地を東へと向かう。歩く速度は、至って緩やかだ。

 しばらく歩き、先ほどと同程度の通りに出た。その通りの右を見れば、泰輝が住むというアパートがあった。その南の先にはスーパーがあるはずだ。

 泰輝はその通りも東へと突き抜けた。二人は家々の間を行く。

 二階建ての家が多かった。見える範疇は、民家とおぼしき家屋ばかりだ。静寂に包まれており、人の姿は、やはりなかった。

 電柱の街区表示板には『阿座斗町四丁目4』とあった。

「そういえば、阿座斗町の案内板ってないのかい?」

 稜弥は泰輝の背中に問いかけた。

 不意に泰輝は立ち止まり、振り向いて首を傾げた。

「案内……?」

「案内板……だよ」

 稜弥は再度、口にした。

 しかし泰輝は、呆然とした様子だ。

「つまり」稜弥は言う。「街の地図だ」

「ああ、地図か」

 どうにか通じたらしい。

「その地図のすごく大きいやつが、どこか……道端とかに掲げられていないのかな?」

「あるよ」

「どこに?」

「神社の前と、病院の近くと、二丁目の公園と、八丁目の公園と、あと……あちこち」

 泰輝は遠くを見つめながら言った。

「公園とかにもあったのか」

 ならば、稜弥が見落としたのだろう。

「でも」泰輝は言った。「その地図……案内板は、そんなに大きくないよ」

「そうなの? どれくらいの大きさなんだい?」

 稜弥が尋ねると、泰輝は両手でその大きさを表した。どうやらA4サイズ程度のようだ。

「それでは気づかないかもしれないな……」

 そうこぼして、稜弥はため息をついた。

 そもそも、この街では案内板など必要ないのかもしれない。

「そういえば、この先に案内板が立っているよ」

 思い出したように泰輝は告げた。


 家並みを抜けると、その先は枯れススキの多い草地だった。やや先に未舗装路が左右に延びており、そのさらなる先に、藪が広がっている。

 草地へと入ってすぐに、泰輝は足を止めた。

「先に見える道を越えると、番外地だよ」

「あの道の向こうへは行かないほうがいいわけだ」

 わかりきったことを口にした稜弥だが、無論、彼の脳裏には二体のヒトムシの姿があった。

 潮の香りがあった。深い藪のその先には海があるはずだ。もっとも、波の音はここからでは聞こえない。

 見れば、未舗装路の一角に立て看のようなものがあった。横長のA4サイズ程度の何かが掲げられている。

「あれが案内板なのか?」

 稜弥がそれを指さすと、泰輝は「そうだよ」と答えた。

「あそこまでなら、行っても問題はないんだろう?」

「全然平気」泰輝は答えた。「それに、番外地に入っても、ぼくがいれば大丈夫だから」

「そうだよな」

 そうはいっても、ヒトムシとの遭遇は避けたいのだ。案内板の先に立ち入るつもりは、当然なかった。

「あそこまで行ってみよう」

 言って稜弥は、歩き出そうとした。

「あら、たいちゃん。おはよう」

 その声に驚き、稜弥は思わず振り向いた。

 腰の曲がった小柄な姿だった。杖を突いた老婆である。

「おはよう」

 泰輝がそう返した。

「珍しいねえ」老婆は言った。「たいちゃんがこんなところに来るだなんて」

「この人を……稜弥さんを案内しているんだ」

「まあ、そうなの。新人さんだね」

 老婆は稜弥に顔を向けた。

「宮川稜弥と申します」

 すかさず、稜弥は自己紹介をした。

「あたしは……」

 老婆はさとむらきよと名乗った。さらには、聞かれもしないのに、七十七歳である、と付け加えた。

「清美さん、お出かけなの?」

 泰輝は尋ねた。清美さん、と口にしたが、誰に対してもそのような呼び方らしい。

「そうだよ。朝の日課だね」

「ぼくたちも散歩なんだよ。一緒に歩こうよ」

 稜弥にしても特にかまわないのだが、自分に一言の断りもないのが、しゃくに障った。

「いやいや、あたしはゆっくり歩くから、遠慮しておくよ。人と話すのは好きなんだけどねえ」

 その最後の一言は、稜弥にとって意外だった。

「あの……失礼かとは思いますが、この街にいらしたのは、お一人になりたいから、ではないのですか?」

 断りを入れたが、失礼の度を超してはいまいか、と不安になった。

「へ……?」

 間が抜けたような声を漏らした清美が、すぐに笑顔を見せた。

「宮川さんは、ここに来てどれくらいなの?」

「きのう来たばかりです」

 率直に答えた。

「そうかい」清美は言った。「ならまだよくわからないと思うけど、こんな街だってね、いろんな人がいるんだよ。世の中が……現世が嫌になってしまった、というのは共通しているようだけどね。だからここの住民の大半は、他人と接したくない、と思っているの。その証拠に、出歩いている人が少ない。でも、あたしみたいに、ここに住んでいる人とならお話ししてもいいんじゃないの、っていう人だっているの。町会長さんだって、現世が嫌になった人なのに、住民の誰とでも会って、お話ししているしね」

 清美の言葉に得心する稜弥だが、同時に、リミの言葉も思い出していた。

 ――ここに住む人たちに共通しているのは、現世が嫌になった、ということですが、中には過激な思想に走る人もいるんです。

「でもね」清美は続けた。「いくらあたしがお話ししたくても、相手が同じとは限らないでしょう? むしろ、この阿座斗町では、人との会話を望まない人のほうが多いわ。特に、身の上話を口にしたくない、っていう人は、かなりの割合だと思うの。……宮川さんは、自分の身の上話、どう?」

 そう振られて、稜弥はすくみ上がった。認めたくはないが、家族を殺害した可能性がぬぐいきれないのだ。

「あ……あの、おれは……」

 口ごもる稜弥に、清美は微笑みかけた。

「いいのよ……ここではそれでいい。みんな事情があるの。だからあたしは、お話ししたくても、我慢するの。……あらやだ、結構しゃべっちゃったじゃない」

 そして清美は噴き出すと、「じゃあ、あたしはこれで」と言い残し、草地を北のほうへと歩き出した。

 清美に一礼をした稜弥は、泰輝に目を向ける。

「おれたちも、行こう」

 そう告げて、稜弥は案内板に視線を向けた。

「うん」と頷いて歩き出した泰輝のあとに、稜弥は続いた。

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