第一章 さまよえる異邦人 ③
少女によれば、町内会の会長が自宅で稜弥を待っているらしい。
「公園に戻ったらおじさんがいなかったんで、探したんですよ。今さらだけど、たいくんに声をかけて、手分けして探せばよかったんですね」
少女はそう付け加えた。
怪物の潜む海岸にいるのも不安であり、来た道を戻るのが得策――と思えた。
稜弥は少女と並んで住宅街へ向かって歩いた。二人のすぐ後ろには、「たいくん」と呼ばれた少年がついている。
住宅街はまだ先だ。右には川が流れ、左には藪が広がっている。このどこかにヒトムシなる怪物が潜んでいるかもしれないが、少年がいるおかげか、確信のない安心感があった。
稜弥の左を歩く少女は、「リミ」と名乗った。カタカナで表記するらしい。一方の少年は、「たいき」と名乗った。
「安泰の
リミが解説してくれた。
もっとも、双方とも姓は口にしなかった。
彼らの姓はともかく、先に名乗ってくれたのだから、稜弥も名乗らないわけにはいかない。稜弥はフルネームで自己紹介した。
「みやかわりょうや」
泰輝が復唱した。
「たいくん、大人の人に対して呼び捨てはだめだよ」
歩きつつ振り向いたリミが、泰輝を睨んだ。
「わかった」
泰輝は告げた。稜弥は確認していないが、おそらく彼はすまし顔だろう。
「ごめんなさいは?」
振り向いたまま、リミは声をとがらせた。
「ごめんなさい」と泰輝は謝罪するが、口調は相変わらずだった。
「そんなに怒らなくてもいいよ。気にしていないから」
リミの剣幕に押されて、稜弥は伝えた。
「はい」
正面に向き直ったリミはそう答えつつも、不服そうな表情を呈していた。
取り繕いも兼ねて、稜弥は言う。
「おれの名前は、宮参りの
「全然わからない」
泰輝が言った。
ネジが何本も外れたような少年、そんな印象があった。しかし、リミにしても先ほどの怪物にしても、そればかりかこの街自体が、不可思議なのだ。もしくは、自分は夢を見ているのかもしれない――そんな感慨を抱くのも、無理はないだろう。
「あのさ」
稜弥は足を止めた。
合わせてリミも立ち止まる。
稜弥に正面を向けたリミに、泰輝が並んだ。
「どうしました?」
リミが不審そうに稜弥の顔を見た。
「この街……
「こっちの世だからこの世」
泰輝が言った。
「たいくん、ちょっと黙って」泰輝を横目で睨んだリミが、稜弥に視線を戻した。「ここは、いわゆる
「じゃあ、おれは死んだ、ということなのか?」
稜弥はリミに尋ねた。
「いいえ。宮川さんはちゃんと生きていますよ。わたしも、このたいくんも」
「でもここは、おれの知っている東京……その中にあるとは思えない」
「そうですね。東京の中とも言えるし、東京ではないとも言えるし」
曖昧な答えだが、稜弥が抱いているイメージと同じだった。
「そう……なんだ」イメージどおりではあるが、得心はいっていない。「さっきの浜辺では、君……リミちゃんが来る少し前に、怪物が現れたんだよ。あんな生き物がいるだなんて、おれの知っている東京ではないはずだ」
「怪物……」
つぶやきつつ眉を寄せたリミが、泰輝に顔を向けた。
「ヒトムシだよ。二匹いた」
泰輝のその一言で、リミは両目を見開いた。
「まさか、その二匹のヒトムシは宮川さんを襲ったんじゃ……」
「襲われたというか、襲われそうになった」
稜弥が答えると、リミの顔に暗い色が表れた。
「早く町会長さんの家へ行きましょう」
そう告げて、リミは歩き出した。
稜弥は逡巡した。確かに、先ほどの児童公園まで戻れば、阿座斗町に至った道を逆にたどれるかもしれない。そうすればこの怪しげな界隈から出ることはできるだろう。町会長と面会する必要もなくなるわけだ。しかし、稜弥には行く当てがないのである。
いぶかしさを払拭できないままだが、稜弥は急いでリミに並んだ。
背後では、泰輝の足音が続く。
森閑とした住宅街が、三人の行く手にあった。
三人は住宅街の中を歩いた。いくつかの辻を右へ左へと曲がり、あれば目安になるだろう先ほどの公園はこの道筋にはなく、ゆえにどこをどう通ったのか、稜弥にはもうわからなかった。もっとも、太陽の位置からして、西のほうへと移動している状況であるのは、なんとなくつかめた。
見える範疇に人の姿がないのは変わらないが、どこか遠くで派手なくしゃみが一度だけ聞こえた。女の声に聞こえた。
門扉のない門の前でリミは足を止めた。門柱も塀もコンクリートであり、家屋もありきたりな二階建てだ。門柱の表札には『武田』とある。門柱同士の間隔が広めなのは、玄関先に停めてある一台のコンパクトカーが出入りするためらしい。
コンパクトカーは品川ナンバーだった。それを知って、稜弥はわずかな安堵を得た。
電柱の街区表示板に何気に目をやれば、『阿座斗町一丁目3』とあった。
稜弥は腕時計で午前十一時十三分であることを確認した。
「ここが町会長さんのお宅かい?」
そうであってほしい、と願いながらリミに尋ねた。さすがに疲れがたまり、これ以上は歩けなさそうである。
「そうです。入りましょう」
リミは稜弥を促した。
「じゃあ、ぼくは行くね」
そう言って、泰輝が背中を向けて歩き出した。
「ここまで来たんだもの、たいくんも入ればいいのに」
リミが訴えると、泰輝は振り向きもせず、歩きながら「町会長さんの話は長いから、ぼくはやめておくよ」と返した。
泰輝を見送りつつ軽くため息を落としたリミが、門の内側へと足を踏み入れた。
宗教の勧誘があれば即座に辞去する――その意思を胸に、稜弥はリミに続いた。
玄関の呼び鈴を押したリミが、インターホンに向かって「リミです。例の人を連れてきました」と告げた。
五秒と経たずに「鍵は開いているよ。入りなさい」と返事があった。男の声だ。
リミは玄関ドアを開け、稜弥に入るよう促した。
おずおずと稜弥が玄関内に入ると、続いて入ったリミが、玄関を閉じて施錠した。
施錠は防犯のためというよりも自分を逃がさないための措置ではないか――などという懸念が、稜弥の脳裏に浮かんだ。
「平和そうな街ですが、決して治安がいいとは言えないんです」
稜弥の視線に気づいたらしく、リミは説いた。
「そうなんだね」
平和そうな街には思えなかった。しかし稜弥はそれを口にしなかった。言葉にするのが、怖かったのだ。
広い玄関ホールに出迎えはなかった。
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