阿座斗町怪異録
岬士郎
第一章 さまよえる異邦人 ①
歩き疲れて立ち止まると、児童公園の出入り口前だった。歩道のない舗装路からそんな公園へと足を踏み入れた。
さほど広くないその公園は、背の低い生け垣によって囲まれていた。反対側にも出入り口がある。
平日とはいえ日中だ。それでも、公園の外も中も人の姿は見当たらない。民家らしき家屋、二階建てアパート――この公園を囲む風景のすべてが垢抜けていなかった。鉄棒や滑り台など公園内の遊具も古めかしく、錆が目立つ。公園の外に電話ボックスがあるのも、現在では珍しい光景だ。大都会の一角であるのがうそのようだが、遠くに見えるビル街が、ここが地方の場末ではないことを物語っていた。
木製のベンチを見つけ、
一陣の木枯らしが吹き抜けた。カジュアルシャツの上に薄手のジャンパーを着ているが、それだけで足りるのは、十代か二十代の若者だけだろう。小さな雲がいくつか浮かぶばかりの青い空は、冷たさをたたえていた。
腕時計を見て、午前十時七分であるのを知った。
「こんにちは」と声をかけられて、稜弥は首を巡らした。
右前方――五メートルと離れていない位置に一人の少女が立っていた。年の頃は十四、五歳だろうか。毛先を外側にカーブさせたセミロングの髪がよく似合う少女だ。もっとも、巫女服を身にまとっているのが、奇異といえば奇異だった。巫女服の、上が白、下が赤、という配色自体も目を引く。足元を見れば、足袋に草履だ。
誰かと話すつもりなどなかったが、無視するのも忍びなく、稜弥は「こんにちは」と控えめな声で返した。
「おじさんは、どうやってここに来たんですか?」
立ち尽くしたまま、少女は尋ねた。そのつぶらな瞳に好奇の色がありありと浮かんでいる。
「ここ……って、この公園?」
「公園というか……この町内」
つかの間、少女は周囲に目を走らせた。
つられて稜弥も一帯を見渡す。
「ああ」少女に視線を戻して稜弥は頷いた。「歩いてきたんだよ。ずっと、歩いた」
北上していたつもりだが、どこをどう歩いたのかは定かではない。東や西へ大きく蛇行していた可能性がある。
「ずっと?」
「うん。電車とかバスは使っていない」
「つまり、この町内に入るときは、歩き、だったんですね?」
「どこからがこの町内とやらなのかわからないけど、かなり遠くから歩きどおしだったから、歩いて入ったのは間違いないよ」
「そうでしたか……」
わずかに首を傾げた少女が、続けて口を開いた。
「ここに来た目的は?」
「たまたま通りかかっただけだよ」
「一人で来たんですか?」
「そうだけど」と答えたところで、稜弥は疑念を抱いた。何ゆえにこの少女はこんな中年男に興味を抱いたのか――そして、何ゆえに質問を繰り返すのか――。
稜弥はそれらを問い返そうとするが、少女の言葉のほうが早かった。
「そうですか。では、ほかに行く当てはない、ということなんですね?」
図星だったが、無論、肯定する気にはなれない。
「どうしてそういうことになっちゃうの?」
「この町内の摂理だからです」当然のごとく、少女は答えた。「そもそも、この町内には路線バスや電車は通っていませんけど」
ならばこの少女は、こちらがタクシーを使ったと想定して、「どうやってここに来たんですか?」などと尋ねたのだろうか。
「ばかばかしい」
稜弥はそう吐くと、ベンチから立ち上がった。
「ちょっと待ってください」立ち去ろうとする稜弥に、少女は言葉を放った。「町内会の会長さんを呼んできます」
「町内会の会長……またどうして?」と尋ねてから、反応を示したことを後悔した。
「町会長さんは神社の宮司でもあるんです。ここは神社を中心に成り立つ街なんです。だから、町会長さんがここのことについて一番詳しいんです」
そのように説かれても、疑念は深まるばかりだ。神社がかかわっているのならなんらかの宗教の勧誘かもしれない――と稜弥は危ぶむ。
「すぐに戻るんで、ここで待っていてくださいね」
少女は一方的に告げると、稜弥が入ってきた出入り口から小走りに公園を出て、家々の間の通りに姿を消した。
呆気にとられつつも、稜弥は反対側の出入り口へと向かった。そして公園の外へ出ると、道端の電柱に掲げられた街区表示板に、何気に目を向けた。
稜弥は足を止め、それを凝視した。『阿座斗町二丁目2』と記されており、本来ならあるはずの区名が記されていない。『阿座斗』は記憶にない地名だが、「あざと」などと思いついた読みを当てはめていた。
いずれにせよ、このようないい加減な街区表示板など、何者かによるいたずらに違いない。むしろ「いたずら」では済まされないだろう。先ほどの少女、もしくはその仲間による仕業――そんな憶測が脳裏をかすめた。
背筋に冷たいものを感じた稜弥は、歩道のない舗装路を、急ぎ足で進んだ。
目にする街区表示板のすべてに『阿座斗町』の文字があった。何丁目なのかは、もはやどうでもよく、確認しなかった。
方角は定かではないが、おそらくは北に向かっているのだろう。もっとも、我が家から離れられるのなら、どの方角でもかまわないのだ。
昭和然とした民家ばかりが並んでいた。そんな住宅街を抜けると、道は丁字路に突き当たった。公園を出てからここまで、人の姿はない。家々もひっそりと静まり返っている。
丁字路の先には川が横切っていた。川に沿う道も、細い舗装路だ。
息が上がりかけていた稜弥は、横切る道を渡り、休憩を兼ねて川を覗き込んだ。
こちら岸も向こう岸もコンクリートブロックののり面で固められており、川面は稜弥の立つ道よりも三メートルほど下だ。川幅自体は五メートルほどだが、両岸ののり面最上部同士の距離は十メートル以上はありそうだった。加えて、両岸とものり面の上部と下部が枯れススキに覆われており、手入れの不行き届きが窺えた。川の水は特に濁っておらず、ゆったりとした流れを見せている。
対岸の向こうは荒れ地だ。その先には葉のほとんどを落とした雑木林が左右に広がっている。さらなる遠方にはビル街があった。
川は向かって右に流れていた。三十分ほど前に港湾の一角を歩いていた稜弥は、この下流に向かえばすぐに海に着くだろう、と考えた。
息が落ち着いたところで、川沿いの道を下流に向かって歩き出した。歩調はやはり、急ぎ足だ。電柱や塀に街区表示板が貼りつけてあるが、それは無視した。
この界隈には不穏な空気があった。多くの建造物が陳腐なのもしかり、少女との遭遇以外には、人の気配がなければ車の走る音もないのだ。ゆえに稜弥は、ここから少しでも遠ざかりたかった。
道も川もまっすぐに延びていた。もっとも、道を進むごとに建物は徐々に減り、二十分も歩くと、道の右側は枯れススキの多い草地となった。電柱がなければ、街区表示板もなく、わずかに気持ちは落ち着いた。
落ち着いたせいか、空腹であることに気づいた。きのうの午後から何も食べていないのだから、無理もない。
潮の香りを感じた。
前方の彼方に青い広がりが見えた。
このまま歩けばあと十分前後で港湾区域にたどり着けるはずだ。とはいえ、そこにたどり着いたとしても――そこに食堂やコンビニエンスストアがあったとしても、この飢えを満たすことはできない。財布もカードもスマートフォンも持っていないのだ。左手首のアナログ腕時計だけが、彼の今の所持品だった。
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