第二十二話 学院長
数日が経ち、土曜日になった。
相変わらず天気が悪く、それでいて湿気のせいで蒸し暑い。
今日は、基本的に学院を出ない薫子が買い物に行くと言って、山を降りて行った。もしかしたら、「証明」のための何かかもしれない。
こっそり着いていこうとしたら、すぐに見失ってしまった。撒かれたのだろう。
というわけで、久しぶりに一人の休日である。自分もどこかに遊びに行こうかと思ったが、特にやりたいこともない。かといって部屋に籠りきりでは気が滅入りそうだ。
薫子と別れた後は自室に戻り、課題を終わらせて、昼過ぎに再び寄宿舎を出た。
散歩でもしようと学校区域に入ると、ジャージを着た運動部の生徒たちがちらほらと見えた。
目的もなく校舎の周りを一周した後、庭園のベンチに腰掛ける。ここは、薫子といつもランチを食べている場所だ。鮮やかな花々に囲まれ、噴水の涼しさも感じられる。
「本でも持ってこればよかったな」
瑠璃はそう呟き、足をゆらゆら揺らす。天気はあまりよくないけれど、風が気持ちよくて暇を過ごすには最適な場所だ。
なにを考えるでもなく景色を眺めていると、ひとつの建物が目に入った。
校舎の南側にある改装されていない施設だ。窓は内側からベニヤ板のようなもので塞がれていて、中の様子がまったく見えない。いつかの昼休みに薫子に聞くと、ここは旧礼拝堂だと教えてくれた。
瑠璃は立ち上がり、庭園を抜けて旧礼拝堂へと歩み寄る。全体的に風化して色あせており、歴史を感じさせる出で立ちである。
全ての施設がこのように古びたままであれば、今のように他県からの人気は出なかったかもしれないな、と思う。改装は大成功だ。
建物の近くに立っていると、入口の扉がギィィと軋んだ。扉は内側からゆっくりと開かれ、暗闇からスーツ姿の男がぬっと現れる。
「え」
立ち入り禁止の場所にまさか人がいるとは思わず、瑠璃は身体を固くさせる。
男は光に目を細めた後、瑠璃の姿を視界に入れて、小さく声を上げた。
「おや」
「学院長……ごきげんよう」
瑠璃は慌てて腰を折り曲げた。
男──学院長は「ごきげんよう」と片手をあげて、近づいてくる。
「あなたは、乙川瑠璃さんですね」
「わたしのこと、知ってたんですか」
「もちろんです。僕は学院長ですから、大事な学生のことはちゃんと把握していますよ」
学院長は人好きのする声音で話し、皺の入った目元を緩める。
銀の縁取りが入った眼鏡に、明るいグレーの仕立てのいいスーツを着た五十ほどの男。背筋はすっと伸び、銀混じりの髪も整えられている。遠目からは見えた肌が、案外乾燥してざらついていることを今初めて知った。
聖ユディカリア学院にいる男は数少ない。学院長や理事長の他は庭師と警備員くらいだ。
女学院の中にいる男というのは、異性嫌悪の対象になったり、微妙な距離感があったりすると思っていたが、どうやらそうでもない。学院の生徒たちは学院長を慕い、尊敬の眼差しを向けている。
けれど、瑠璃らどうにも苦手意識を持ってしまう。「安心感」を貼り付けたような表情が整いすぎていて、嘘くさい。
あれだ、ショートケーキの甘ったるい味と一緒だ。接していると、胸焼けがしてくる。
彼への印象を表情に出さないように注意しながら、問いかける。
「ここは礼拝堂ですよね。別の場所に新設したのに、どうして残してあるんですか」
「聖女像が残っていますから」
聖女像と聞いて、瑠璃は咄嗟に庭園の方へと顔を向けた。ここからでも花壇越しに石像が見える。
「あれと同じですか?」
「はい。外に出すことが難しくて、このまま残すことにしました。壊すことはできませんからね」
あの生々しい像がもう一体あったなんて、と少しぞっとする。
「学院長はなにをしてたんですか?」
「祈りを捧げていました。──とはいえ、ここでできるのは僕の特権です。なにぶん築年数が経っていますから、危険なんです。学生は入らないように」
別に入ろうとはしていないのに……と心の中で悪態をつく。なぜかこの人に対してはいちいち反発を抱いてしまう。なんとなく、空気が合わないというやつだ。
「聖ユディカリアって、そんなにすごいんですか」
瑠璃が尋ねる。居心地の悪さから、随分冷たい調子になってしまった。
学院長は眼鏡の奥にある瞳を光らせ、口を開く。
「外から来た方には、わかりませんか」
ひどく突き放すような言い方だった。
一瞬、仮面が剥がれ、硬いガラスのような面持ちが覗いた。あなたにはわからないでしょうね、と嘲笑うような嫌な感じがする。
「大丈夫です。僕や先生方の授業を聞き、学院で過ごしていれば、聖ユディカリアの素晴らしさはおのずと理解できるはずです」
一方的に言われても、みんながどうしてここまで傾倒しているのか分からない。
眉をひそめる瑠璃に対して、学院長はふいにパッと顔を笑顔に変える。
「さて、学生には休息も大事ですから、休日はゆっくり過ごしてください。また授業で会いましょう」
学院長は爽やかに言った後、眼鏡をクイッと持ち上げ、踵を返して去っていった。
彼の背を見送り、中の様子がまったくうかがえない旧礼拝堂を観察する。
聖女像って二体いてもいいのだろうか。二体とも、このまま動き出して悪魔を退治してくれればいいのに。
毎月〈聖なる乙女の儀式〉をして、加護を得なければならないというのは、よく考えればおかしな話だ。儀式の他にも毎日礼拝を行っているのに。
毎日加護を授けてくれれば、悪魔に隙なんて与えないのに。秩序と呼ぶには不完全である。
そもそも──。
「シスターペトラが本当に霊能者だっていうなら、祓魔師とかも存在するんでしょ。そういう人たちを呼べばいいのに。ぱーっと祓っちゃえばおしまいじゃんか。バカな学院」
呟きに反論するかのように、身を刺すような冷たい風が首筋を掠める。
庭園に佇む聖ユディカリアは、天に眼差しを向けている。
けれど、同時に見ている。彼女の元に佇む瑠璃を見ているのだ。
そんなに見られても、なにもできない。
祓魔師の知人なんていないし、瑠璃に悪魔を倒す力はない。今月は犠牲がでませんように、と祈ることしかできないのだ。
∔∔
ガチャ、と物音が聞こえ、瞼を持ち上げる。夢から醒めてしまったようだ。なんの夢を見ていたかは一瞬にして忘れてしまった。
もぞもぞと身を捩り、左手で枕元のスマートフォンをタップすると、〈六月二十日木曜日 01:04〉と表示されていた。今日はまだ二時間と少ししか寝ていない。
「ん……?」
ぺた、ぺた、と静かな足音が床を叩く。
瑠璃は息を潜め、シーツの上に肘をついたまま、右手でそっと仕切りのカーテンを引いた。
レールがわずかに軋み、その音に反応するように、向こう側にいた少女──薫子がぱっと顔をこちらに向ける。
目が合った。彼女は片手で掛け布団を握りしめ、ちょうど横になろうとしていたような体勢である。
つん、と匂いがする。甘いのに土臭くて、腐った果実のような湿った匂い。
以前も嗅いだことがあるように感じながら、薫子に問いかける。
「……どこに行ってたんですか?」
「忘れもの」
なんでもない風に答える薫子に、瑠璃は訝しむ。
「こんな夜更けに?」
「今日じゃないとダメだったの」
薫子はため息混じりに言う。
既に消灯時間を過ぎているため、寄宿舎からの外出は禁じられている。夜間は宿直の職員がいて、出入口を監視しているはずだ。
普通は追い返されるだろうに、薫子の言いぶりからして「忘れもの」という目的を達成できたらしい。
「起こしてしまってごめんなさいね。明日もはやいでしょう。おやすみなさい」
はぐらかすように、細い指先でカーテンをそっと閉められる。
これも、証明のためのなにかなのだろうか。
明日──零時を過ぎているから厳密には今日──はマスカレードの日だ。明日、薫子はなにかする気なのだろうか、それとも、今なにかを成してきたのか。
薫子との間にある薄いカーテンが、今だけ分厚い石壁のように感じられる。
心がモヤモヤするの加えて、不思議な匂いが鼻の奥に残る。
微妙な暑さのせいでパジャマが背中に張り付いて、嫌な夜だ。結局、窓の外が明るくなり出すまで眠れなかった。
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