喜んで。心美しい私のお嬢さん -2

「きゃ! いったい……」

 ロアーナの言葉より早く、ガラガラと音を立てて足元が崩れる。

 土埃の中で、ヴィサルティスは右手一本でせり出した岩に掴まり、ふたり分の体重を支えた。

 登ることは難しくないが……そう考えていると、支えにしていた岩盤も崩れ落ちる。


 ヴィサルティスは両手で彼女を抱え、積み重なった瓦礫の上に両足で着地した。バランスの悪いその場所から素早く離れ、砂地の上に彼女を置いて、周囲を警戒する。砂煙が立ち込めるほか、特筆すべきものはなさそうだ。

 ふぅっと肺の中の空気を吐き出し、ようやく彼女に笑顔を向ける。

「すまん、驚いたよな。埃がおさまるまで、ハンカチで口元を覆っておくといい」


 彼女の肩を抱いて、砂煙の少ない奥側へ移動する。パシャパシャと、歩くたび水が跳ねる。どうやら、足首くらいの深さまで水が溜まっているようだ。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 簡潔な礼は、彼女らしい。

「まるで、知っていらっしゃるように見えました」

「あぁ、俺の祝福については知らないのか」


 世間で戦神の加護と呼ばれているヴィサルティスが授かった祝福は、武と栄光の神ヴァルアトゥスの『予見』。危機が迫った時、数秒先の未来を教えてくれる。戦場での数秒は、生死を左右するのに十分な時間である。

 ヴィサルティスはあまり魔法は得意ではなかったが、会得した肉体強化の魔法と『予見』を駆使して数多の勝利を収めた。そして、戦神の申し子と呼ばれるようになったのだ。


 ヴィサルティスの祝福は、ロアーナにとって興味深い内容だったようだ。

「意図して使えるものですか? 強力な祝福ほど魔力の消耗も激しいと思いますが、副作用のようなものは?」

「俺がピンチになると知らせてくれる、意識して使ったことはないな。ってことでたまにしか使わないし、俺は魔法より剣を鍛える方を選んだから、魔法のことはよく分からないんだ。君はどうだ? 翻訳って、聞いてるだけで疲れそうな能力なんだが」

「剣と同じです。習熟度によって疲労も異なります。子どもの頃とは違い、今では翻訳したくらいでは、それ……」


 不自然に、ロアーナの言葉が途切れた。

 訝しんでいると、彼女はハッと驚いたように後ろを振り向く。数歩進んで立ち止まり――恭しく淑女の礼をとった。

「聖獣さまにお目にかかります。ロアーナ・イルム・トラットと申します」


 ヴィサルティスはロアーナと同じ方向を見つめたが、そこにあるのはただの岩山だ。頭上から降り注ぐ光の中にこんもりとせりあがっていて、苔や湿地の植物が生えている。塵が舞い、足元の水が反射して小さなきらめきを放つ、なかなか幻想的な光景ではあったが、それだけだ。

(聖獣、か。たしか最後に現れたのは、200年ほど前。聖獣戦争が最後の記録だったと思うが)

 聖獣、と呼ばれる獣がほかの獣と異なる点は、人間と意志疎通ができること。といって、友好関係があるかというとそうでもないのだが、聖獣戦争と呼ばれた戦いでは、人間と聖獣は力を合わせて戦い、傷ついた聖獣たちは各地に散ったと記録されている。

(この無人島が、聖獣の眠る地だったというのか?)

 ヴィサルティスは、彼女の行動を尊重しようと思った。特に危険も感じられないので、黙って後方に控えている。


 それなりの時間が経過した。洞窟内は、静寂で満たされている。微かな水の流れ、空気の動き、光のゆらぎ……そういったものを感じながら無為に過ごしていると、変化は静かに訪れた。


 岩山が、瞼を押し開いたのだ。その中から、黒々と潤んだ瞳が現れる。

 眠そうな皺だらけの顔で、それは眠そうに言った。

「ほぅ、おもしろいものを宿しているな、人間の娘よ。こうして話すのは何年ぶりだろうか」

 よくよく、思い込みを捨てて全体を見渡してみると。盛り上がっているのは、甲羅だ。丸みを帯びた顔、平坦な口、手前に横たわるのはひれ。

(ウミガメ、か……?)

 ヴィサルティスが悠々と頭の上に座れるくらいの、巨大な亀が、横たわってふたりを見つめていた。

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