【眞絢】

斎場の宴会場から家に戻ってきて以来、わたしの身体は、まるで鉛のように重かった。

親戚のあの女性の言葉が、脳裏で無限に反響する。

「真弓さんの次は、眞絢ちゃんが」

「咳をするのは、常に一人だけ」

「一人が死んでから次が咳をし始める」


母の死体を発見したあの時、既に数日が経っていた。そして、わたしが咳をし始めたのは、まさに母が死んだであろう頃だった。


わたしの全身を流れる血が、呪われているのだ。苗村眞鏡の死から始まり、遠い親戚から一人、また一人と、死の連鎖が続いている。姉の真梨香も、母の真弓も、この呪いによって命を奪われた。そして今、その呪いは、わたしへと確実に引き継がれたのだ。その事実に、胃の腑の痛みが、さらにきりきりと脈打つ。喉の奥にへばりつく乾いた違和感は、もはやわたしの一部と化してしまっていた。


日が昇り、日が沈む。その繰り返しが、まるでわたしの命の砂時計が、刻一刻と減ってゆく音のように感じられた。食欲はない。眠りも浅い。ただ、時折襲い来る激しい咳の発作だけが、わたしがまだ生きていることを、そして死へと向かっていることを、痛ましいほどに教えてくれる。

ゴホッ、ゴホッ……!


まただ。喉が焼け付くように熱くなり、肺が痙攣する。身体の内側から、何かが無理やり押し出されようとしているような苦痛だ。咳をするたびに、全身の筋肉が硬直し、呼吸が止まる。苦しい。息ができない。

窓ガラスに映るわたしの顔は、日に日に痩せ衰え、血の気が失われてゆく。そして、その顔には、あの忌まわしい般若の形相が、より鮮明に張り付くようになっていた。目は大きく見開かれ、憎悪と恐怖が混ざり合った光を宿す。唇はひきつり、額には深い皺が刻まれている。それは、母の、そして姉の、死に瀕した顔と瓜二つだった。鏡を見るたびに、その悍ましい姿に、わたし自身の内側から、底知れない恐怖と、そして絶望が込み上げてくる。

この呪われた血筋に生まれたことを、心から呪った。なぜ、わたしがこんな目に遭わなければならないのか。なぜ、わたしの家族が、こんなにも無慈悲な死を迎えなければならないのか。会社への憎悪が、ふつふつと込み上げてくる。確かに、呪いの根源は会社ではないのかもしれない。

だが、苗村眞鏡がそこで命を絶ったことから、この悪夢は始まったのだ。この会社が、この忌まわしい連鎖の引き金を引いたのだ。

身体の自由が、少しずつ奪われてゆく。歩くのも億劫になり、食事を口にすることもままならない。味覚は麻痺し、食べ物の匂いすら、腐敗臭と混じり合って、吐き気を催させた。日中も、布団から出ることができなくなった。ただ、天井を見上げ、過ぎ去る時間を待つ。その間にも、身体は蝕まれ続けている。肺が、まるで細い糸で縛られているかのように、呼吸をするたびに締め付けられる。

夜になると、悪夢にうなされた。母の腐敗した姿が、何度も目の前に現れる。その臭いが、鼻腔の奥にこびりつき、わたしを窒息させる。姉の死にゆく姿、遠い親戚の顔も見た事がない眞鏡の苦しむ顔。

彼女たちが、わたしを地獄へと誘うかのように、幻影となって現れるのだ。目が覚めると、全身が汗びっしょりで、身体はさらに消耗していた。

「もう……嫌だ……」

声にならない呟きが、乾いた喉から漏れる。この苦しみから、解放されたい。けれど死への恐怖は、日に日に増してゆく。しかし、同時に、この耐え難い苦痛から逃れたいという願いが、強くなっていった。死は、もはや恐れるべきものではなく、むしろ解放へと続く唯一の道のように思え始めた。

夜、激しい咳の発作がわたしを襲った。これまで経験したことのないほどの、強烈な咳だ。肺が破裂しそうなほどに激しく痙攣し、身体は弓なりに反り返る。呼吸ができない。酸素が、肺に届かない。苦しい。苦しい。


ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ゲホッ!


喉からは、もう空気すら出てこない。血の味がする。口の端から、赤い液体が滲み出ているのがわかる。わたしの血だ。この血が、この呪いを宿しているのか。この苦しみが、わたしに罰を与えているのか。

意識が、遠のいてゆく。視界が白く霞み、周囲の輪郭が曖昧になる。身体が、冷えてゆくのを感じる。しかし、内側では、まだ何かが燃え盛っていた。それは、会社への、消えることのない憎悪だ。苗村眞鏡を死に追いやった会社が憎い。そして、わたしの家族を奪い、今わたしをも殺そうとしている、この呪いの本当に最初の発端となった会社が許せない。

許さない。

憎悪だけが、最期の力を振り絞るかのように、わたしの意識を繋ぎ止めていた。だが、それも長くは続かない。身体は、すでに限界を超えていた。

薄れゆく意識の中で、わたしは、かつての愛鶯の顔を思い出した。あの時、わたしが彼女にぶつけた言葉が、ふと反響する。


「化け物」


彼女は、わたしを心配してくれていたのに、わたしは、自分の恐怖に囚われ、彼女を突き放した。後悔の念が、最後の力を振り絞るかのように、わたしの心を締め付ける。


許して。許してください。愛鶯。


だが、もはや、その言葉を伝える術はない。

身体中の痛みが、最高潮に達する。まるで、全身の血管が、内側から破裂してゆくかのようだ。呼吸が、完全に止まる。視界は、暗闇に包まれた。

その瞬間、わたしの脳裏に、あの音が響き渡った。


リリリン……リリリン……


電話の音だ。

九日の電話だ。

だが、これは幻想。

ああ、わたしは、この電話の主と、同じ道を辿るのか。いや、違う。わたしが、この電話の主そのものとなるのか。

意識が、闇の深淵へと沈んでゆく。身体の苦痛も、憎悪も、後悔も、すべてが遠ざかってゆく。

そして、わたし、苗村眞絢は、その場で息を引き取った。

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