《シーン8》

【瑤晶】

日付が、灼熱の烙印のようにわたしの脳裏に焼き付いていた。カレンダーの数字を塗りつぶしたい衝動に駆られるが、それは無意味な行為に過ぎない。

わたしたち社員にとって、決して逃れることのできない日が、目の前にはあった。

六月九日になってしまった。五月九日からの日付は、一ヶ月もあるのに、安堵のせいか解けるようにすぎていた。そして、六月九日になっている。

朝から、オフィスには張り詰めた空気が満ちていた。それは、音もなく、色もない、確かにそこに存在する、透明な壁のようなものだ。誰もが口数を減らし、顔には硬い仮面を貼り付けている。キーボードを叩く指の動きも、資料をめくる音も、普段より神経質で、どこか怯えを含んでいるように感じられる。呼吸をするたび、肺が軋むような痛みを覚えた。この空気を吸い込むこと自体が、毒のように思える。

わたしもまた、その沈黙の囚人だった。昨夜から、ほとんど眠れていない。悪夢にうなされるたび、あの不吉な電話の呼び出し音が、鼓膜を直接叩くように響いた。ベッドの中で、わたしは身体を丸め、ただひたすらに祈り続けていた。


どうか、明日、あの電話が、わたしの携帯電話を震わせませんように。どうか、この死の運命が、わたし以外の誰かに降りかかりますように。


罪悪感が、胸の奥で燻る。他者の不幸を願う、自身の醜さに、吐き気がこみ上げた。しかし、それは、この会社で生き残るために、誰もが身につけてしまう、冷酷なまでの本能だ。誰かが犠牲にならなければ、わたしが犠牲になる。この二者択一の選択が、わたしたちの精神を蝕み、人間らしい感情を少しずつ削り取ってゆくのだ。

時計の針が、刻々と時を刻む。秒針の音が、異様に大きく響き渡る。一秒、また一秒と過ぎるたびに、わたしの心臓は激しく脈打つ。喉が乾き、手のひらには冷たい汗が滲んでいた。身体中の血が、一瞬にして凍りついたかのように、指先まで冷え切っている。

午前中、電話が鳴るたびに、フロア全体が微かに震えた。そのたびに、誰もが息を潜め、視線を固定する。そして、受話器が取られ、それが自分宛てではないと分かった瞬間の、ごくわずかな安堵の息遣い。その繰り返しが、わたしたちの九日のすべてだった。


しかし今日、「苗村眞鏡」からの電話は、まだ鳴っていない。

午前の業務を終え、昼食の時間になった。社員たちは、三々五々、食堂に向かう。わたしも、その流れに身を任せ、食堂で食事をすます。やはり、食事の味など、ほとんど感じられない。口に運ぶたびに、砂を噛むような感覚がした。誰もが、言葉少なに、ただひたすら料理を口に運ぶ。その沈黙は、まるで、互いの顔色を伺い、誰が次の犠牲者となるのか、静かに探り合っているかのようだ。

一緒に行動する社員たちも、今日ばかりは話をしない。

ただ足早に食事を済ませ、オフィスに戻る。


午後が始まった。最も恐ろしい時間帯だ。あの電話は、大抵午後に鳴り響く。

心臓の鼓動が、全身に響き渡る。呼吸が、異常なほど浅くなる。胃の奥がきりきりと痛み、頭には鈍い重みがのしかかる。身体の奥底から、抗えないほどの震えが湧き上がってきた。

その時、フロア全体を支配する、耳をつんざくような呼び出し音が響き渡った。

けたたましい電子音だ。

身体が、その場に縫い付けられたかのように硬直する。全身の血の気が引き、視界が白んでゆく。周囲の社員も、一様に息を呑み、金縛りにあったように動かない。その視線は、一斉に、音の発生源を探し求めて彷徨う。

しかし、その音は、どのデスクからも発せられていない。

オフィス全体が、巨大な密室と化し、その音が、天井から、壁から、そして床から、わたしを取り囲むように響き渡る。どこから鳴っているのか、正確な場所が特定できない。だが、その音は、確実に、この空間全体を震わせている。

電話は、鳴り止まない。普段の電話であれば、すぐに切れるか、誰かが取るはずだ。しかし、この電話は違う。執拗に、そして不気味に、その音を響かせ続けている。

社員の女性が、意を決して電話を取った。彼女は、恐る恐る返事をしている。

「はい、お客様」

その声が聞こえた時、どっと体の力が抜ける。苗村真鏡ではなかった。

その時、ふと、ある考えがわたしの脳裏を過ぎる。

もしかしたら、この電話が、会社にいる誰かではなく、会社を休んでいる者にかかっているのかもしれない。

背筋に冷たい悪寒が走る。その可能性は、これまで何故か頭になかった。あの電話は、常にフロアのどこかで鳴り響き、その場で誰かが受話器を取るものだと思っていた。しかし、稀には休んだ社員に電話がかかることがあるのを思い出した。わたしもその可能性があるため、今日休むことは無意味だと思っている。

わたしの視線は、無意識のうちに、フロアを見渡した。そして、一箇所に、視線が吸い寄せられる。

空席。

そこに、普段ならあるはずの、人物の姿がない。

まさか。



────休んでいるのは、承乃しかいない。

その事実が、脳髄に稲妻のように走り抜ける。膝から力が抜け、身体が崩れ落ちそうになる。わたしの心臓は、激しい痛みを訴え、全身の血が逆流するような錯覚に陥った。

という事は。

わたしが、この場で、安堵の息を漏らしていたその裏で。

わたしが、この忌まわしい電話が自分にかからなかったことに、密かに感謝していたその瞬間に。

承乃は、今、その電話を受け止めているのだ。

わたしの口から、絶望の息が漏れる。

声にならない、震える息が、周囲に拡がった。

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