【眞絢】
数時間前まで、ここにたしかに佳莉はいた。
わたしと同じように、社員と会話し、仕事をする。
彼女は確かに社員であった────。
当たり前のように、そこに存在していた人間が、何の言葉もなく、まるで最初からいなかったかのように消え去った。
もう、佳莉は戻らない。
戻らないと、部長が言っていた。ここのオフィスに戻らないのか、それとも会社を辞めてしまうのか分からないが、もう明日から彼女はいないものとなるのだ。
「気の毒に」
「可哀想だね」
「もう会えないのか」
断片的に耳に届く言葉の数々は、佳莉の消滅が、彼らにとっては予期され、回避ができないことだったと言っているように聞こえる。この会社に潜む、見えない悪意────があるというのだろうか。
佳莉の身に何が起こったのか、誰も教えてくれない。
聞く勇気もない。
佳莉自信に聞くのも憚られる。どう聞いて良いのかも分からないのだ。
オフィスには戻らない────。彼女はどこにゆくのだろうか。
佳莉は今どこにいるのだろう。
わたしの最も深い恐怖は、これでは無い。
確かに会社がおかしく、佳莉が消えてしまったのは大事である。
けれどそれは、最も深い恐怖によって、今にも覆されそうだ。
午前中の緊張が極限に達したとき。それは、電話がなった時であった。
そして、佳莉が消えた。
恐怖も居心地の悪さも絶望も、実際に起こっていた時より鮮明になる。それまで実感がわかなかったのが遅れて深くわたしを締付ける。
この感情は、あの時に似ている────。
ゴンッ、ゴンッゴホッゲフッ……。
脳裏に、母の顔が鮮明に浮かび上がる。苦悶に歪み、みるみるうちに血のように赤く染まり、血管が浮き上がる般若の形相が、母の顔には張り付いている。
それは母で母では無い。
別の人では無いかと、思っていた。それだけあの表情は、人のものでは無い。
目に焼き付いて離れない悍ましい姿が、フロアにいる社員の顔に次々と重なって見えてくる。
わたしの脳裏に浮かぶ全員であり、どこか全員と違う。
奥の席の上司が小さく咳払いをした瞬間、その顔が紅潮し、口元が醜く歪む幻影を見た。部長が資料をめくる合間に喉を鳴らすたび、彼の顔が般若の面と化し、血走った目がわたしを射抜くように感じられた。
これは幻覚だ。わかっている。目の前の人間は、普段と寸分変わらない顔をしている。だが、わたしの脳は、その現実を拒絶する。耳に響く咳の音が、視界を歪ませ、目の前の光景を恐怖の色に染め上げてゆく。彼らが発する咳の音は、もはや単なる咳ではない。わたしを追いつめる、不吉なトリガーだ。
呼吸が浅くなる。肺が酸素を求めるように苦しくなった。手のひらに、ねっとりとした冷たい汗が滲む。冷や汗はながれおちることも無く、わたしの手のひらに停滞する。
椅子に座っているだけなのに、全身が震え、動悸が激しくなる。このままではいけない。この場で、わたしは平静を保てなくなる。
気づかれてしまう、など考える余裕が無い。
「大丈夫?」
横から、承乃の心配そうな声が聞こえた。わたしは、振り向くことができない。彼女の顔も、いつか般若に変わってしまうのではないか。その恐れが、わたしの全身を支配していた。顔を見たくない。目も潰れない。カッと見開かれたまま動くことが出来ない。
「うん…ちょっと……気分が悪くって……。大丈夫だから……」
細い声しか出なかった。
全く大丈夫では無いはずなのに、嘘をついてしまう。誰にも心が許せない。
今までわたしは全部一人で抱えて生きてきた。
心を許した人間も、いつか咳をする。その時わたしの中に、その人とかべがうまれてしまう。結局そのように信頼できる相手がいないまま、表面上の関係で凌いできた。
承乃も愛鶯も佳莉もいい人だとは思う。わたしに歩み寄ってくれたため、わたしたちは友人になった。
けれど、一度も心を許せないまま、彼女たちは咳をした。
咳をすることは自然なことで悪いとは思っていない。
悪いのはわたしだ。
咳くらいで反応してしまうわたしが悪いとわかっている。だが、変われない。無理やり平気だと思い込もうとしたこともあったが、結局失敗に終わった。
なぜわたしはこんなにおかしくなってしまったのだろう。
なぜ咳なんかに反応してしまうのだろう。
反省しても、悔いても咳を前に崩れ去る。
わたしは一生誰にも心を許せないまま死んでゆくのだろうか。
視線をパソコンの画面に固定しようと試みるが、画面の向こうから、あの般若の顔がにじみ出てくるような錯覚に襲われる。
オフィスは、わたしにとって安全な場所ではなかった。むしろ、母の咳の音から逃れたくて社宅に住んだはずなのに、今やこの場所こそが、より広範な恐怖の舞台と化している。母一人から発せられていたあの音は、このフロアのあらゆる場所から、無差別に響いてくる。誰が、いつ、その恐ろしい顔を見せるのか、常に警戒していなければならない。その精神的な消耗は、想像を絶するものだった。
胃のあたりが、きりきりと痛み始めた。頭の奥がズキズキと脈打つ。この場に留まっていれば、わたしは完全に自我を失ってしまうだろう。そうなる前に、ここから逃げなければならない。
だが、逃げてしまえば────現実的な問題ものしかかる。生活費が稼げなくなり、経済的に困窮する。
やめない方がよいこともわかっている。
それでも────
わたしは、何とか椅子から立ち上がった。
周囲の視線が、こちらに集まるのを感じる。だが、もう、他人のことなど気にしている場合ではない。この場から一刻も早く離れることだけが、今のわたしの唯一の目的だ。
部長のデスクの方に視線を向ける。声をかけるべきか、いや、無理だ。あの顔を見れば、あの声を聞けば、わたしの内側から何かが崩れ落ちてしまいそうだ。
「あの、少し、体調が優れないので……早退させていただいてもよろしいでしょうか」
絞り出すように言葉を口にした。声は震え、ほとんど聞こえなかったかもしれない。
視線は、地面に貼りついたまま、石膏でかためられたようにうえを向けない。
部長はわたしの方を見た気配を感じる。
そして彼はしばらく時間が経ってから頷いた。
「ああ、無理はしないように。ゆっくり休んでください」
言葉は、意外なほどあっさりとしていた。留られ、帰れないかと思っていた。
それでも、帰るつもりであった。
わたしは、ほとんど駆け出すようにして、自分のデスクに戻り、最低限の荷物を掴む。バッグのチャックを閉める指先が、小刻みに震えている。愛鶯や承乃に声をかける暇もなかった。いや、かけることができなかった。今のわたしに、誰かの顔を直視する勇気はない。
エレベーターホールまでたどり着き、扉が閉まると、わたしの全身から一気に力が抜けた。だが、安堵したとは言えない。
フロアの喧騒から解放されたことで、かえって自分の内側から咳の音が鮮明に聞こえる。幻聴だと理解しても止まらず、耳の奥に、こびりつくように鳴り響く。そして、般若の形相も、忘れようとも目に焼き付いて離れない。
社宅への道のりも、わたしの心を蝕む。すれ違う人々の顔が、どこか恐ろしく見える。彼らが咳をすれば、わたしは反射的に身構えてしまう。この恐怖は、この会社の中だけに留まるものではなかった。それは、わたしの内側深く、細胞の隅々にまで染み付いてしまっているのだ。
部屋の鍵を開け、明かりもつけずにベッドに倒れ込んだ。天井を見上げるが、そこに安らぎはない。闇の中に、あの顔が浮かび上がっては消える。なぜ、この恐怖はわたしにつきまとうのだろう。母の咳だけでは説明できない、何か別のものが、わたしの心を捕らえているような気がした。
佳莉は、なぜ消えたのだろう。
何も知らずに彼女は、この会社に潜む何かの餌食になったのだろうか。
身体の震えが止まらない。疲労と恐怖が混ざり合い、わたしの意識を深い沼へ引きずり込んでゆく。
この悪夢は、いつか終わるのだろうか。それとも、わたしもまた、佳莉と同じように、ある日突然、この世界から消え去ってしまうのだろうか。答えは、闇の中に沈んだままだ。
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