電話が来た

【承乃】

五月の空気は、本来ならもっと軽やかであるはずだった。入社して約一ヶ月が立っている。四月十二日という、まだ記憶に新しいその日から、わたしたちは社会という大海に放り込まれた。最初の一週間は、ただ波間に漂う小舟のように力なかったように思う。同期の存在は、荒波の中で互いに掴み合う命綱のように、わたしを社会につなぎ止めている。休憩時間に交わす言葉も、初めの頃の、どこか学生気分が抜けない軽口から、少しずつ現実的な業務の悩みが混ざるようになった。わたし自身、日々の仕事に追われながらも、少しずつこの環境に馴染んできたという手応えを感じていた。気づけば研修期間のように朝の目覚めに重い鉛のような感覚を覚えることもない。

だが今日の社内は、明らかに違っている。朝から、フロア全体が異様に騒がしい。静けさというものがまるでない。沈黙するものは新人ばかりだ。普段であれば、午前中特有の、研ぎ澄まされた集中と、それに伴う静けさがある。規則的なキーボードの打鍵音と、電話を応対する声だけが、オフィス全体に響き渡る。だが、今は違う。まるで水面を滑るような、ひそひそとした会話の波が、あちらこちらでさざめいている。

わたしはあまり気にしないようにして頭の中で、今日の業務予定を一つずつ確認してゆく。だが、意識はいつの間にか似て非なるそれに写っている。何か重要な会議があっただろうか。いや、わたしのスケジュール帳には、そのような記載は一切ない。社内イベントの告知も、これまでのところ一切耳にしていない。この会社では、そういった情報はたとえ新入社員であっても、事前に共有されるのが通例のはずだ。

机の上に置かれた卓上カレンダーに視線を落とした。薄緑色の印刷が施された日付が並ぶ。目を滑らせ今日の数字を探す。今日は五月九日だ。月末に多い締め切りも今は全くなく、月初の多忙な時期も既に過ぎ去っている。

それなら、毎月九日に何があるのだろうか。

しかしやはり、この九日に何か特別な意味があるという記憶は、わたしにはなかった。四月十二日にこの会社の一員となったばかりのわたしたちには、この日の異様さが一体何に起因するのか、全く理解できていなく、新人は全員と言うほど皆首を傾げている。このざわめきの中にいる社員に、臆することなく声をかけるほどの度胸は、わたしにはまだ備わっていない。

そんなことを考えていると偶然か隣の席の愛鶯が、わたしの方に顔を向けた。

それを皮切りにか、自然にわたしは口火を切る。

「ねえ、なんか今日、変な感じじゃない？」

やはり彼女も、この不穏な空気に気づいていたのだ。

「うん、わたしもそう思ってた。なんか、落ち着かないよね」

わたしは愛鶯の言葉に頷きながら、フロア全体を見渡した。

新人以外の社員が、頻繁に席を立ち、別の社員の元でよく会話をしている。

フロア全体が、まるで得体の知れない気配に包まれているようだ。普段と同じ様子を保っているのは、わたしたち新入社員だけだった。

とはいえ他の新人も、時間が経つにつれ、辺りを見渡す回数が増えて行った。全員が張りつめた空気を感じとった時、彼らも────わたしたちも皆そんな空気に染まり緊張を深めていた。

「なんか、会議でもあるのかな？」

思ってもいないことを、わたしは呟いていた。

だがそれが、わたしを無理やり落ち着けるために呟いたことを、自分のことだから知っている。やはり会議の知らせなど、一切聞いていない。普段なら必ず事前に知らされる会議が、突然なんの通知もなくある訳は無い。臨時の会議でも、社内に一斉に知らされるためわたしたちだけが知らないことがあるのだろうか。そんな考えの数数が、わたしの胸に重くのしかかった。何に怯えているのか、具体的なことは何も分からない。しかし、この場に満ちる空気は、明らかに普段とは違う、不穏な色を帯びていた。

午前十時を過ぎた頃から、一部の新人も会話を始め、ひそひそとした話し声が増えてゆく。重苦しく、押し殺したような気配が漂っている。

わたしは、近くの上司の顔を見る。やはり彼女もざわめきの中心で戸惑うように会話をしている。尋ねてみようかとも考えた。しかし、何と切り出せばいいのか分からない。もし、その言葉選びに失敗してしまったら────。

わたしはここにいられなくなるかもしれない。

わたしは、職場の人間関係というものが、些細な一言で簡単に崩れ去る危険性を、この一ヶ月で嫌というほど学んでいた。上司の顔色を伺い、波風を立てずに過ごすことが、この場所で生き残るための最善策だと、肌で感じていたのだ。そう思うと、言葉は喉の奥に引っ込んだまま、なかなか出てこなかった。

時計の針は、あっという間に午前十一時を過ぎている。抑えられた囁き声が一分一秒たつ度に勢力をましてゆく。

普段の業務中に聞くような、事務的なやり取りとは対照的に個人的で感情のこもった声が場違いに木霊している。決して大声ではないが緊迫した声が重なり合っている。

わたしが仕事中ということも忘れ、辺りを見渡していると、部長が何故か立ち上がり、フロアの中央に向かって歩き出した。少しだけ手招きをすると、彼の周囲に、社員が集まってくる。何かを話しているようだ。声は全くと言って良いほど聴こえないが、口の動きでよくわかる。聞いてみたいと思いはするけれど、わたしたちがいって良いような空気感ではない。しばらくして、周囲のざわめきは急速に収まり、皆が静かに耳を傾け始めたのが分かった。フロアの中心に、張り詰めた糸のような、重苦しい緊張が走る。

その場にいる全員が、彼の話を聞きながら、時折沈痛な面持ちで頷いたり、相槌を打ったりしているのが見えた。表情は一様に、絶望を映していたり、あるいは不安げだったりする。どこか怯えているような、何かを覚悟しているかのような顔つきだ。

「……何が、始まるんだろうね」

また声が漏れてしまった。わたしの周りの席の人はわたしを独り言を言うおかしな人だと思わないだろうか。

辺りを見渡したが隣の眞絢は、固く口を結んだまま、じっと部長の方を見つめている。わたしの独り言には気づいていないようだ。

わたしは、この会社の奥底に潜む、何か見えないものに触れてしまったかのような、不気味な感覚に囚われた。わたしたちは知るべきでは無いのだろうか。

一体いつになれば知って良いのか。

わたしはそれまでこの会社で自己の均衛を保つことが出来るのだろうか。

部長の話が終わり、人々は沈黙のままそれぞれの席に戻ってゆく。そして、再びひそひそとした会話が再開された。だが、今度の会話は、先ほどまでの漠然としたざわめきとは異なり、もっと明確な目的を持ったものに聞こえる。これから確実に何かが始まる。

良くないことが。

それだけは、聞いていないわたしにも分かってしまう。

部下に正しい情報を伝えるのが上司の仕事ではないのか。わたしたちはなぜこんなに不安に支配されなくては行けないのだらうか。

やるせなかった。

フロア全体の空気が、重くのしかかるように肌にまとわりついた。

わたしの五感は、常にフロア全体の異様な雰囲気に囚われていた。新しく入ったわたしたちには、この会社の「九日」が何を意味するのか、まるで分からなかった。

午後に何かがあるのだろうか。わたしの身にあるのだろうか。それとも愛鶯や承乃や眞絢の見に起こるのだろうか。

あるいは他の社員か。

時計の針は、正午を指した。昼休みは時間割通りに始まったが、昼休みに入っても、フロアに漂う重苦しい空気は変わらない。