第17話

 あいつ今、何をした。

 彼女を……。

 彩菜を突き飛ばしたのか。


 さっきまで激痛だった頬の痛みなんて気にならないほどの怒りが、自分の中で沸々と湧き出てくるのがわかった。

 冷静を保っていた自分の理性というものが粉々に砕けていく音がした。


 ……許せない。


 腕っぷしでは必ず負ける。

 それでもかまいはしない。

 一発でもこいつを殴らないと気が済まない。

 

 僕はこいつを絶対許さない。


 そう思って立ち上がろうとした時だった。

 誰かに強い力で肩をグッと押され、僕は立ち上がることができなかった。


「……お前は手を汚すな」


 怒りで周りが見えなくなっていたが、その声だけは確かに聞こえた。


 聞き覚えのある声。

 いつも話している友達の声。


 康紀だ。


 彼に気づき僕が顔を上げると、それはあっという間の出来事だった。


 康紀は富田の前に立ちはだかり、明らかに素人離れした構えをして、右のジャブを富田の顔面に一発入れた。

 そして左、右と交互に腹や溝落ちにパンチを入れ、回し蹴りを顔面にヒットさせた。

 ものすごい勢いで富田は吹っ飛ばされ、倒れ込んでいる彼に康紀は馬乗りになり、淡々と一定のリズムで顔面にパンチを入れていく。


 中学の時に1度や2度、クラスで起きた喧嘩を見たことがある。

 その喧嘩はお互いが感情的になり、パンチが大ぶりになっていたり取っ組み合いになるだけで、最後は誰かが止めに入るという定番の流れで締めくくる素人同士の喧嘩だ。


 でも今、僕の目の前に映る喧嘩の光景は、明らかにプロと素人の喧嘩だった。

 というより、富田が一方的にやられているだけだった。

 康紀は表情を一切変えることなく、淡々と富田にパンチを入れていく。


 普通の喧嘩ならそろそろ誰かが止めに入ってもおかしくないタイミングだった。

 しかし、康紀の一方的、かつ洗礼された喧嘩のスタイルを目の当たりにしたクラスメイトたちは、皆呆然と立ち尽くしていた。


 そして、そばで見ていた速見はあまりの恐怖に膝が崩れて号泣し、茨木は富田の悲惨な姿に口を押さえ震えている。


 馬乗りになっていた康紀は、富田が気絶しているとわかったタイミングで攻撃をやめ、静かに立ち上がった。

 この状況にクラスメイトの誰もが息をひそめ、物音ひとつにも敏感になるほどの静けさが教室内を支配していた。


 あの状態なら、富田はおそらく病院行きだろう。

 

 僕は康紀の言うとおり手を汚すことはなかったが、彼の両手と頬にはべったりと血がついていた。

 

 僕のせいで彼の手を汚すことになってしまった。


 康紀は僕の方を振り返り、顎で彩菜の方へ行くように合図した。

 僕は即座に立ち上がって、彼女の元へ駆け寄る。


「彩菜、大丈夫?怪我は?」

「……う、うん。ちょっと打っただけ。私は大丈夫」


 良かった。

 大きな怪我はなくて。

 でも、早く保健室へ連れて行かないと。


 すると康紀は両手と頬に血がついたまま、恐怖で座り込んでしまった速見の元へ近づき、一言添えた。


「……なぁ。木代さんが来たら、ちょっと遅れるって伝えてくんねぇか?」


 康紀は怯え号泣している速見に対し、威嚇するでも脅し文句を言うでもなく、ただいつものトーンで伝言だけを残した。

 そして、康紀は教室を出て行こうとした。


「……康紀、どこ行くの?」

「トイレ行きそびれたからな。手も汚れちまったし、もっかい行ってくる」


 僕に背を向けたままそれだけを言い残して、彼は静かに去っていった。


 速見は、真顔で一人の男をボコボコにし気絶させ、何事もなかったかのように平然と話しかけてきた康紀の奇妙な行動に、底知れない恐怖を覚えたはずだ。


 康紀はあえてそうしたんだろう。

 変に脅迫するより、ああするほうが確かに効果はありそうだ。


 教室内は先生たちが駆けつけるまでシンっとした時間が続いていたが、他のクラスの生徒たちが徐々に群がり、静かだった教室内はガヤガヤとした騒がしい声に包まれていった。


 気絶した富田は救急車で運ばれ、康紀は別室に隔離されているようだ。

 僕と彩菜は保健室で応急処置を受けた後、事情聴取のため職員室に呼ばれた。


 彩菜はショックのあまり喋られる状態ではなかったので、僕が代わりに木代先生に事情を説明した。

 事情を聞いた先生は頭を抱え、かなり困った様子だった。


 無理もない。

 今回の騒動は1年E組内で起こったことだ。

 いじめ、暴力、怪我人の三拍子が揃う最悪の問題を担任として木代先生は背負うことになるのだ。


 康紀の処分は後日、発表されるという。

 騒動が騒動なだけに、退学の可能性もゼロではないみたいだ。

 

 そして、僕らは事情聴取から解放され、大人しくE組の教室に戻ることになった。


 ただ、教室に戻っても僕と彩菜に声をかける生徒は誰もいない。


 当然だった。

 彩菜と今まで仲の良かった二人はそれどころではないし、彼女と関わりのある女子たちもこの騒動の間は、結局見てるだけで何もできなかったんだ。

 この状況で彼女に話しかけようとするやつなんて流石にいないだろう。


 彩菜は一人、自分の席で机に伏せている。

 クラスで一番仲の良かった友達に裏切られたのだ。

 心の傷は計り知れない。


 それに引き換え、僕は元から話しかけてくるやつなんていなかったし、再び康紀と仲良くなる前の僕に戻っただけだった。



 時間が経つにつれて、校内は今までと同じ日常を取り戻しつつあった。


 僕はといえば、授業が始まっても当然内容なんて全く頭に入ってこず、終始上の空でノートは白紙、ペンを握ることすらできなかった。

 そして、ぼーっとしたまま時間だけがあっという間に過ぎ、午前の授業が終わった。


 昼休み、彩菜の席に視線を向けると、彼女は俯いたままでお弁当を食べる様子もない。

 

 本当は親しい女友達が彼女を慰めてあげるべきなんだろうが、そんなことができる女子はもうこの教室にはいない。


 僕は教室で一人ぽつんと席に座る彼女を放っておけず、声をかけた。


「……彩菜、一緒に屋上行かない?」


 僕の言葉に彩菜は静かに頷いたので、僕らは弁当箱を持って屋上へと向かった。

 屋上の扉を開けて見上げた空は、僕らの気持ちとは裏腹に雲ひとつない青空だった。

 僕らは屋上唯一の日陰スペースにゆっくりと腰掛ける。


 すると、ずっと黙っていた彩菜は口を開いた。


「……良隆」


 なんとか絞り出したような声だった。


「……ごめんね。私のせいで……」


 何を謝ることがある。

 挑発をしたのは僕だ。

 僕がもっと上手く立ち回れていればこんなことにはならなかったんだ。


「……私さ、入学したての頃から良隆や康紀が、なんでいつも一人でいるのか正直疑問だった。私、誰にでもこんなんだからさ、そんな二人に対して、なんで友達作ろうとしないんだろうって思ってたの。……でも今回のことで初めてわかった。私、今新しく友達作ろうなんて思えないもん」


 僕も彩菜のことはいつもクラスの中心にいて、友達もたくさんいて、何でも上手く立ち回れるリア充の象徴のような人だと思っていた。

 

 でも実際は違った。


 彼女は何でも上手く立ち回れるわけではなく、一瞬で友達を失いひとりぼっちになり、新しく友達を作ることも臆病になってしまっている。


「それは買い被り過ぎだよ。康紀はわからないけど、僕は臆病なだけだ」


 これは紛れもない事実だ。

 僕は臆病だから今まで友達を作ろうとしなかった。

 ただそれだけだった。


「友達付き合いは慎重になった方がいいとは思う。でも誰でも気兼ねなく話せる彩菜の長所は失くす必要はないよ」


 彩菜にそれだけは失くさないで欲しかった。

 たとえ今後、それでまた傷つくようなことがあったとしても。

 それを失くすと彩菜が彩菜でなくなってしまうような気がした。


「……それが彩菜の魅力だと思うからさ」

「……そっか」


 彼女は小さく返事をした。

 しかし、さっきまでの覇気のない声とは異なり、微かに芯のある声色を取り戻しつつあった。


「……康紀、戻ってくるかな?」

「……戻ってきてもらわないと。僕は康紀がいないと何もできないからね」


 自虐的な言葉が自然と口からこぼれる。


 僕はなんでこんなことを言ってるんだろう。

 そんなことを彼女に言ったところで、何になるというんだ。


 でも、その言葉は本心だった。


 今回のことは康紀がいなかったらどうにもならなかったし、自分の無力さを痛感させられた瞬間でもあった。


 彩菜を励まさなきゃいけないというのに、こんな言葉を発するなんて、本当に情けないな、僕は。


 しかし、彼女はそんな僕に意外な問いかけをした。


「……良隆。もしかして康紀がいなくなったら、自分はダメになるとか思ってるんじゃない?」


 思ってるんじゃない。

 ダメになるんだ。

 僕は康紀がいないと何もできない。


「それは違うよ」


 何を言ってるんだ。

 康紀がいなかったら僕は富田にボコボコにやられていたし、彩菜を守りきることなんてできなかった。

 僕は結局、何もできなかったんだ。


 しかし、彩菜はそれ否定する。


「富田と喧嘩になった時、あんた最初から康紀に頼るつもりなんてなかったんじゃない?」


 そういえば僕はあの時、トイレに行った康紀を呼びに行くという選択肢があったはずなのに、それを選ばなかった。


「自分の力で何とかしようとしてたんじゃないの?」


 早く仲裁に入らなければ彩菜はもっと酷い目にあっていただろうし、何よりそれを見てるのが僕には耐えられなかった。


 だから自分が殴られてでも、あの場を納めたかった。

 それが合理的な選択ではないこともわかっていた。


 でも気づいたら、僕は彼女の元へ足を進めていた。

 僕なりに彼女を守りたいと思ったのだ。


 黙っている僕に彼女は続ける。


「康紀はさ、わかってたんじゃないかな。自分がいなくても良隆がなんとかしようとすることを。だから康紀はギリギリまで手を貸さなかったんじゃない?」


 康紀はあの時、トイレに行きそびれたと言っていた。

 そして、ちょうど僕が富田に手を出そうとしたところで彼は戻って来たのだ。

 偶然にしてはタイミングが良すぎる。


「今日のあんたを見て、康紀がいないと何もできないなんて、私これっぽちも思えないよ」


 そうか。

 わかっていたのか。


 誰かに刃向かったりしなさそうな僕が、富田たちに怯まず立ち向かっていくことを康紀は信じてくれていた。


 だから、彼はすぐに手を差し伸べず、僕の様子を見守っていたのだ。


 本当に不思議な男だ。


「……彩菜、なんかごめん」

「お互い様だよ。もういいじゃん。なんか落ち着いたらお腹すいてきちゃった。お弁当食べようよ。ね?」

「……うん」


 彩菜は吹っ切れたのか、目を少し赤く腫らしたままだったが、いつもの彼女に戻ったように見えた。


 そして、僕らは二人で横並びになり、弁当箱を広げた。

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