Track 04 沈黙ピアノのジムノペディ

 月が、雲間からこぼれていた。――ポエミーな導入で恐縮だが、事実なので仕方ない。

 ミルクみたいな白光が、教授宅の木造フロアを薄くコーティングし、俺のテンションを5%だけセンチメンタル方向にブーストする。


 問題の地下室へ降り切った瞬間、視界の中心に鎮座していたのは、年代物の YAMAHA アップライトピアノだった。

 鍵盤はところどころコーヒー牛乳色、板材は過労でカッサカサになっている。それでも“楽器”としての存在感は健在――要するに、堂々たるおじいちゃんピアノだ。


「……本物かよ」


 思わず独り言が出た。異世界に飛ばされて以来、初めて“生まれ故郷のフォルム”と再会したわけで、胸が少しだけ騒ぐ。……いや俺、ピアノ苦手なんだけどさ。


 教授は鍵盤にそっと指を添えた。


「このピアノは三十年前、海峡に流れ着いたコンテナの中から見つかった。構造は壊れていたが、修復はできた。ただし――音は出ない」


「サイレント機能付きってことですか?」


「むしろ“機能断絶”だ。《静穏令せいおんれい》の呪い――〈沈音呪詛ちんおんじゅそ〉がこの地脈に残っている。旋律という構造は“存在しなかった過去”へと上書きされ、記憶も感覚も掻き消える」


「……つまりこの世界には音楽が“最初からなかった”ってことになっているんですか?」


「そうだ。かつて旋律を知った者も、いまや空白を抱えたまま生きている」


 異世界転移よりホラーじゃん、その仕様。


   ◇


 それでも俺の足は、ピアノへと勝手にスライド。教授が小さく息を漏らす。


「……試してみるかね?」


 このピアノは本来この世界に存在してはならない禁断のアイテムで、それを弾くというのは、いわば“禁止ボタンを押す”って行為と同じってわけか。そう考えると指先が震えた。興奮か恐怖か、たぶんその両方。


 冷え切った鍵盤に右手を置く。――氷点下の扉をノックするみたいな感触。


 ――なんで、これなんだろう。

 無意識に指が、ある形を探していた。

 音は出ていないのに、メロディが“埋まっていた場所”を確かめるみたいに。


 妹が、小学生のころにピアノ教室の課題でよく弾いてた――エリック・サティの『ジムノペディ No.1』だ。


 ドラマのBGM、病院の待合室、卒業式のスライドショー……たぶん、日本で暮らしてりゃ一度は耳にしてる、あの“ポーン、ポーン……”ってやつ。

 下手すりゃ、「あれ? エヴァで流れてたっけ?」とか言い出すやつもいるレベル。

 俺にとっては、妹が電子ピアノで何度も弾いてた“生活音”みたいなものだった。

 その横で、俺は『世界樹の迷宮』のレベル上げ。まさか、そっちのレベルが今になって活きるとは思わなかったけど。


 気づけば、俺の指は、鍵盤の上をなぞっていた。

 脳からじゃない。

 手から立ち上がってくるような旋律。

 再生じゃない。

 再現でもない。

 “展開”だ。


 音は出ない。けど“構造”が走る。

 指がゆっくり鍵盤をなぞるたび、空気に不可視の波紋が浮かび上がる――蛍光色の円が、静かに、しかし確実に世界にヒビを入れていく感覚。


 コード、テンション、拍、残響、その全部が脳内 HUD にオーバーレイ表示。俺の身体はもはや DAW。意識より先に演奏が走り、世界律≒物理エンジンへハッキングを仕掛ける。


 教授は目を閉じたまま固まり、イリヤは胸に手を当てる。無表情ヒロインの目尻に、ふわりと光るもの――あっこれ、こっちが動揺するヤツ。


「……いま、聴こえた気がした」


 イリヤの震え声。音じゃない。けど確かに触れた。そんなニュアンス。


 鍵盤から手を離すと、部屋の中でだけ風が止まったような静寂が落ちた。


「これが“演奏者プレイヤー”か……」


 教授の声は、かすかに震えていた。


「音を鳴らさずに、響きを残す者。君が、そうなのだろう」


 なぜ、俺がこの世界に呼ばれたのか。

 この“演奏”が、何を引き寄せてしまうのか。

 その答えは、まだ霧の中だった。


   ◇


 翌朝。鳥の鳴き声で起床。音の少ないこの世界で、それはとても異質で、逆に新鮮だった。旋律じゃない。ただの鳴き声。

 でも、その不規則さが妙に心地よい。

 村は静かだった。だが、死んだような静けさではない。パンを焼く匂い。薪を割る音。獣が草を踏む気配。

 音楽のない世界にも、生活の“リズム”は確かに存在していた。


 朝食を終えた俺は、教授に言われるまま、村のモブ作業に従事。薪を運び、畑に水をやり、干し草を積んだ。

 ぎこちなかった動作も、少しずつ体に馴染んできた。

 そして、広場に向かうと、またあの子どもたちがいた。


「旅の人ー!」

「きのうのお兄ちゃんだー!」


 苦笑しながら手を振る。

 どう見ても“冒険者”には見えない格好だったけど、彼らにとってはそれでも珍客らしい。


「今日はなにしてたの?」


「薪割り、干し草運び、あと畑に水やり。……完全に村のモブです」


 子どもたちは「もぶ?」と顔を見合わせて、なぜかそれだけで笑った。


「じゃあさ、またお話してよ!」

「お話って言ってもなあ……」


 そう言いながら腰を下ろすと、子どもたちが勝手に円をつくって囲んでくる。

 この“話してくれるのが当然”みたいな圧、こわい。


「じゃあ……好きな食べ物とか、聞いてもいい?」

「わたしはね、赤い実のパイ!」

「ぼくは、焼きオーガのしっぽ!」


「……いや、待て。なんかやべー単語混ざってなかった?」

「知らないの? 森にいる大きなオーガだよ! 皮はかたくて臭いけど、しっぽのとこだけはやわらかくて、お祭りのときに焼いて食べるの!」

「なんでそんなBOSS級魔物のパーツが縁日グルメみたいな扱いなの!?」


 気づけば笑ってた。

 “音楽”なんて言葉、出さなくても。

 このリズムは、ちょっとだけ、心地よかった。


「……村の暮らし、どう?」


 振り向くと、イリヤがいた。

 木漏れ日のなかで、銀髪がふわりと揺れる。

 その光を受けて、まつ毛の縁がきらきらと光っていた。


「筋肉痛以外バグなしって感じ」


「ばぐ……?」


「あー、“バグ”は想定外の不具合って意味。“デトックス”は汗かいて余計な毒を流すイメージ」


 イリヤは眉尻を下げて小さく首を傾げ、唇の端だけゆるめる。


「陽介の故郷――トーキョー? どんな街?」


「“自分探しで迷子になった大人”と“いいね欲しさに夜明け前から走る人”が無限に湧いてくるダンジョン」


 イリヤは、ぽかんとした顔で俺を見つめた。


「……それって、強い人たちなの? それとも、弱い人たち?」


 思わず吹き出しそうになった。


「うーん……“必死な人たち”って言ったほうが正しいかな」


 彼女はしばらく黙って、なにか考えていたようだったが、やがて小さく頷いた。


「でも、きっと綺麗なんだろうな。そういう場所って」


「え、なんでそうなる?」


「だって、人が溢れても歩みを止めないんでしょう? その絶え間なさが――少し羨ましい」


 風が枝葉をこすり抜ける――やべ、心拍の BPM がワンコーラス跳ねた。フェイバリット曲のジャケットみたいに横顔が輝いて見える。深呼吸、落ち着け俺。


「昨日の演奏、無理してたんじゃないかと思った」


「逆だよ。体が“これだ”って思い出した感じ」


 ――隠しコマンドが全解放されたようなチート感。多幸感と怖さが同時に襲い、骨で“音楽”を理解した瞬間。


「音がなくても胸が震えたの、初めてだった」彼女は胸元をそっと押さえる。「もう一度……確かめたいんだ」


 ジョークも皮肉も挟めず、俺はただ雲の切れ間を見上げた。

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