暁にして遅く

Reisz歴史考察!

第1章 暁の目覚め

第1話 暁にして遅く

潮の流れが止まっていた。


 東京湾に停泊する護衛艦〈いずも〉の艦橋に立つ白石誠一郎は、その異様な静寂に最初に気づいた男だった。56歳、統合幕僚長。国家防衛の最高責任者として、数々の危機を乗り越えてきた彼だが、今、目の前の海はこれまで経験したどの事態とも異なる気配を放っていた。


 水面はわずかに揺れている。だが、それは風によるものではない。まるで海そのものが呼吸を止め、何かを待っているかのようだった。空もまた、いつもより重く、雲の輪郭がぼんやりと滲んでいるように見えた。


「艦長、風速計とGPSが……すべて静止状態です」


 若い士官が、緊張を隠しきれぬ声で報告してきた。白石は無言でうなずき、艦橋の強化ガラス越しに水平線を睨んだ。港湾施設の喧騒も、遠くで響くはずの民間船のエンジン音も、すべてが消えていた。聞こえるのは、艦内の機械の微かな唸りと、自分の鼓動だけ。


「衛星通信は?」


「完全に遮断されています。他艦との交信も途絶。東京湾内の全自衛艦艇、及び一部民間船が、現実の位置情報を喪失しています……ただ、ジャイロ航法による推定位置が一致しておりまして」


 士官は一瞬言葉を切り、信じがたい事実を口にする覚悟を整えた。


「現在地は……北太平洋、ミッドウェー諸島の南東海域。距離にして約五千キロの東進です」


 白石の目が細まる。にわかには信じられない。だが、彼の直感はすでに答えを掴み始めていた。空の色、雲の動き、海の静けさ――すべてが、いつもとどこか違う。見慣れた東京湾が、まるで遠い記憶の断片のように霞んで見えた。


「通信障害ではないな」白石の声は低く、しかし確信に満ちていた。「これは、それ以上の何かだ」


 艦橋内の空気が一瞬で張り詰める。士官たちは顔を見合わせ、誰もが同じ予感に囚われていた。異常事態。だが、それが単なる「異常」で済むものではないという確信が、白石の胸に静かに広がっていた。


 



 


 五時間後、首相公邸の地下、危機管理センター。


 白石が到着した時、室内はすでに緊迫した空気に包まれていた。閣僚たちは、眠りを中断された者、会議の途中で呼び出された者、食事の手を止めた者――それぞれが、目の前の「現実のずれ」に直面していた。


 大型モニターには、信じがたい映像が映し出されていた。日本列島の衛星写真。だが、その周囲には見慣れぬ影が浮かんでいた。旧式の戦艦、木造の漁船、プロペラ式の爆撃機。まるで歴史の教科書から抜け出したような光景が、リアルタイムで映し出されていた。


 内閣総理大臣、九条陽人が口を開いた。37歳という若さながら、その声は落ち着きと威厳を湛えている。


「白石統幕長。これは、どういうことですか?」


 白石は一瞬、息を整えた。彼は防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊の情報部隊で戦史を専門とし、米英露の戦略史を深く研究してきた男だ。だからこそ、目の前の状況が示す結論を、誰よりも早く理解していた。


「結論から申し上げます。我々は、過去にいます。恐らく1942年6月4日、昭和17年。太平洋戦争の真っ只中です」


 室内にざわめきが広がる。だが、白石の声は揺るがない。


「日本列島そのものが――国土、国民、そして一部の周辺海域ごと――この時代に転移したとしか考えられません」


 九条の目が鋭く光る。「つまり、国家として過去に飛ばされた、と?」


「はい、総理」


 九条は一瞬、天井を仰いだ。若々しい顔立ちに、衝動的な感情は見られない。代わりに、深い思索に沈む姿があった。


「この時代……今の世界は、何をしようとしている?」


「大日本帝国は、アメリカとの戦争に勝利しようとしています。数日後、ミッドウェー海戦が起こる。史実では、この戦いを契機に日本は敗戦への道を歩み始めます」


「我々がここにいることは……その戦争の行方に干渉することになる」


「おそらく、否応なく」


 九条は唇を引き結んだ。彼の視線は、モニターに映る旧式艦船のシルエットに注がれていた。


 



 


 夜明け前、護衛艦〈かが〉の甲板。


 白石は軍服の上にネイビーブルーのコートを羽織り、冷たい海風に身を晒していた。空はうっすらと光を帯び始め、暁の気配が漂い始めている。


 「暁」――この言葉は、歴史の中で多くの悲劇を孕んできた。白石は知っている。太平洋戦争の開戦もまた、暁の雷撃とともに始まったのだ。


「止めねばならん……」


 彼の呟きは、海風にかき消される。だが、その背後に副官が近づき、緊張した声で報告した。


「白石統幕長、連合艦隊旗艦〈大和〉と交信の兆候があります。どうやら、こちらの存在に気づいた様子です。接触を望んでいます」


「山本五十六か」


「おそらく」


 白石は静かにうなずいた。敵ではない。だが、味方でもない。歴史の向こうから現れた存在に、どう向き合うか――その答えが、今、彼に委ねられていた。


「交信を受けよう。ただし、言葉を先に。砲火ではなく、理性で迎えるのだ」


「了解しました」


 空が、ほのかに紅に染まり始めていた。まるで世界そのものが、新たな朝に息をのんでいるかのようだった。


 



 


 同時刻、帝国海軍・連合艦隊旗艦〈大和〉。


「我が艦隊の進路に、正体不明の艦隊が接近中です。姿形、まったく未知。戦艦とも空母とも異なる奇怪な構造です」


 報告を受けた山本五十六は、艦橋の窓から遠くの海を見つめた。59歳の連合艦隊司令長官は、これまで数々の戦場をくぐり抜けてきた。だが、この事態は彼の経験を超えていた。


「……未来か、幻か」


 彼の声は穏やかだが、内に秘めた炎が感じられた。ミッドウェー海戦の敗北を予感しながらも、軍部の圧力に抗い続けてきた男。その彼が、今、未知の存在と対峙しようとしていた。


「まずは接触だ。撃つな。相手が未来からの亡霊であっても、我々は敬意と誇りをもって迎える」


 



 


 東京、首相公邸。


 九条陽人は閣議の席で、閣僚たちを前に静かに語り始めた。


「我々は、この時代において侵略者であってはならない」


 その声は抑制されているが、力強さを失わない。


「しかし、未来を知る者として、この戦争の結末を知っている以上、沈黙は罪です。白石統幕長に接触任務を委任します。可能な限りの対話を。可能な限りの抑止を。そして……最悪の場合でも、我々は『現代の理性』を忘れてはならない」


 閣僚たちの間に、重い沈黙が流れた。誰もが、歴史の奔流に投じられた小さな岩の重みを理解していた。


 



 


 白石誠一郎は、〈かが〉の甲板で朝焼けを見つめていた。


 彼の胸には、歴史の知識と、未来への責任が交錯していた。戦争を止めることは可能なのか。あるいは、その干渉こそが新たな悲劇を生むのか。


 暁の空は、希望と絶望を等しく映し出していた。


 そして、現代日本は一つの使命を掲げ、動き出した。


 ――歴史の奔流に、小さな岩を投じる行為。それは、確かに始まっていた。

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