第4話 はじめまして、私の名前はルナ

ハーモニア村。

それが、私が命からがらたどり着いた、小さな村の名前である。


村の入り口に立つ、素朴な木の看板にそう書かれていた。


そして、村には一軒のパン屋があった。

「こむぎ亭」という、可愛らしい名前の店である。


私が追い求めていた、あの幸せの香りは、ここから漂ってきていたのだ。


(ついに、たどり着いた……)


安堵した途端、ぷつりと意識の糸が切れた。

私の小さな体は、もはや限界だったのだ。

ふわふわの毛玉は、まるで糸の切れた人形のように、ことりとその場に倒れ込む。


最後に見たのは、「こむぎ亭」の木の扉。

その下から漏れる、温かい光だった。


(パン……食べたかったな……)


それが、私が意識を失う前に考えた、最後の望みであった。



「ふぅ、これで明日の仕込みは終わりかな」


エリアは、額の汗をそっと拭った。

彼女は、このパン屋「こむぎ亭」の一人娘である。

夜遅くまで、一人で明日のパンの仕込みをするのが、彼女の日課だった。


パンを焼くのは、大好きだ。

自分が作ったパンを、村のみんなが「美味しい」と言って食べてくれる。


その笑顔を見るのが、エリアにとって何よりの幸せだった。


でも、時々、ふと不安になる。

この世界では、強さはレベルで測られる。


戦闘スキルを持たないエリアのレベルは、たったの「3」。

村の子供たちと、さほど変わらない。


(私、このままでいいのかな……)


もっとレベルが高ければ、両親に楽をさせてあげられるかもしれない。

村の役に、もっと立てるかもしれない。


そんな思いが、時々、彼女の心をちくりと刺すのだ。


「……よし、そろそろ戸締りをして休もう」


エリアは、そんな弱い気持ちを振り払うように、ぱん、と両手で頬を叩いた。

そして、店の表の様子を確認するために、そっと木の扉を開ける。


その瞬間、彼女は「あっ」と小さな声を上げた。

扉のすぐ目の前に、何かが倒れていたのだ。



それは、小さな、白い毛玉だった。

森を彷徨ってきたのだろうか、体は泥や木の葉で汚れてしまっている。


でも、その汚れの下にある毛は、驚くほど真っ白で、ふわふわだった。


「……きれい」


エリアは、思わず息をのんだ。

夜空に浮かぶ月が、そっと地上に舞い降りてきたかのような、神秘的な美しさ。


耳の先と、くるんと丸まった尻尾の先だけが、月の光を浴びて銀色にきらめいている。


「大丈夫? 怪我はない?」


エリアは、そっとその小さな体に手を伸ばした。

おずおずと、その白い毛に触れてみる。


(わあ……!)


驚きの声が、心の中で響いた。

触れた指先から伝わってくるのは、信じられないほどの柔らかさと、ぽかぽかとした温もり。

まるで、極上のシルクか、春の陽だまりそのものに触れているような、心地よさだった。


彼女は、その小さな体を、そっと優しく抱き上げる。

大切で、かけがえのない宝物を見つけたかのように。


腕の中に収まった毛玉は、安心したように「ふみゅ」と小さな寝息を立てた。


「こんなところで寝てたら、風邪をひいちゃうよ」


エリアは、その愛らしい姿に、自然と笑みがこぼれる。

そして、腕の中の小さな存在に、優しく語りかけた。


「あなたの名前は、今日から『ルナ』ね。月の光みたいに綺麗だから」


この出会いが、自分の人生を、そして世界の運命さえも変えることになるなど、この時のエリアはまだ知る由もなかったのである。



温かい。

ふわふわで、柔らかくて、とても温かい。


(……ここは、天国?)


前世で過労死した時も、こんな感覚はなかった。

まるで、母親の腕の中に抱かれているような、絶対的な安心感。


私は、ゆっくりと瞼を開けた。


最初に目に飛び込んできたのは、心配そうに私を見つめる、優しい栗色の瞳だった。

亜麻色の髪を三つ編みにした、可愛らしい少女。


年の頃は、18歳くらいだろうか。


「あ、気がついた?」


少女は、ほっとしたように微笑んだ。

その笑顔は、まるでひまわりのように明るくて、見ているだけで心がぽかぽかと温かくなる。


私は、自分がその少女の腕の中に抱かれていることに気がついた。

ここが、あの温もりの正体だったのだ。


「きゅ?」


私は、状況が分からず、小さく首をかしげる。

すると、少女は「よかった」と、もう一度優しく微笑んだ。


「はじめまして、ルナ。私の名前はエリアだよ」


ルナ。

それは、私がこの世界に転生した時に、ステータス画面で見た名前だった。


そして、エリア。

彼女が、私を助けてくれたのだ。


(エリア……)


私は、その名前を心の中でそっと繰り返す。

目の前にいるのは、レベルもスキルも関係ない、ただの心優しい一人の少女。

その温かい腕の中で、私は思った。


ああ、ここが、私の求めていた場所なのかもしれない。

私の、新しい日常が、ここから始まるのだ。


私は、エリアの腕の中で、安心しきったように「きゅん」と一つ鳴くと、すりすりと彼女の胸に顔をうずめたのであった。


それは、長い、長い孤独の終わりを告げる、小さな合図だった。

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