第15話 「たとえあなたが壊れても、私はここにいる」

たとえまだ心が壊れたままでも——

置いていかれるのが怖くても――


もしかしたら——

ほんの少しだけでも——


「頑張り続ければ…下を向いてさえいれば…『大丈夫』って自分に言い聞かせていれば…いつか、なんとかなるんじゃないか」

そう思ってた。


でも、現実は希望なんか気にしちゃくれない。


午後の遅い時間、小さな店の古びた軋むドアが開いた。

入ってきたのは、いつものように肩を強張らせ、鋭い目をした大家さんだった。


「光ちゃん」

低いけれど重たい声。


「もう二ヶ月だ。家賃、まだ入ってないよ。」


カウンターの下で手が震えた。


「わ、わかってます…すみません…。今月だけは、ちょっと——」


「わかってるよな?」

言葉をさえぎる大家さんの声が鋭く刺さる。

「来週までに払えないなら…出て行ってもらうからな。」


——出て行く。


その言葉が冷たい釘みたいに胸を貫いた。


私は頭を深く下げて、声がかすれた。

かすれる。「お願いします…あと一週間だけ…必ず払いますから…もう少しだけ時間をください…。」


大家さんの視線が突き刺さる。

同情と苛立ちが混ざった目。


そのとき、不意にもうひとつの声が聞こえた。


「いくらですか?」


蓮の声だった。落ち着いていて、でもどこか強い声。


振り向くと、蓮が私の隣に立っていて、大家さんをまっすぐ見つめていた。


大家さんが頭をかいた。

「二ヶ月分だからな…八万五千円が二ヶ月で十七万円だ。」


膝が抜けそうになった。

多すぎる。

とても無理だ。


蓮は小さくうなずいた。

「わかりました。来週までに払います。」


「蓮くん、だめ——!」

思わず声が裏返った。


大家さんは意外そうに肩をすくめただけで、

「じゃあ、来週までだな。」

そう言って出て行った。


ドアが鈍い音を立てて閉まる。その音が胸の奥に残ったまま。


静寂が私たちを呑み込んだ。


私は震える手を握りしめて、蓮を見つめた。

「なんで…?どうしてそんなことするの?なんで家賃なんか払おうとするの…!」


私の声にも怯えた様子はなくて、ただあの優しい目で私を見ていた。


「気にしなくていい。」


「気にしなくていいって…!」

声が震えて滲む。

「蓮くんの問題じゃないのに…!私のためにそんなことしたって…嬉しくなんかない…余計に…壊れてしまうのに…!」


気づけば袖が濡れていた。

泣きたくなんかないのに。

小さくて、誰かに助けられる自分が嫌だった。


蓮は目を伏せた。

その横顔に浮かんだ影は、悲しみなのか、それとも哀れみなのか——わからなかった。


「……わかった。」

小さく息を吐いて、静かに言った。


「元気でな、光。」


そして私が何かを言う前に背を向けて歩き出した。


その背中が遠ざかっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。

息まで一緒に持っていかれたみたいに。


私はカウンターの奥にある小さな椅子に沈み込んだ。

両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。


お母さん…私、どうしたらいいの…?


目を強く閉じても、涙はこらえきれずに溢れてくる。


お母さん…どうすればいいの…?


店の中は、私の詰まった息の音だけが響いていた。


色あせた街灯の下で、レンはひとり歩いていた。

ポケットに手を突っ込んだまま、視線を落としてとぼとぼと。


***

【レンの視点】

***

「——あの重さに押しつぶされていく彼女を、黙って見ているなんてできなかった。

立ち尽くしているだけなんて、俺には無理だった。」


手の中のスマホが震えた。

俺は古くからの友人、ケンタに電話をかけた。


「レン? どうした、大丈夫か?」


「頼みがある。」

声が震えないように必死で抑える。


「何か他にできる仕事ないか? 何でもいい。残業でも夜勤でも……何でもいい。」


「……何があった?」

ケンタが慎重に訊いてくる。


「頼む、ケンタ。教えてくれ。」


少しの沈黙のあと、キーボードを叩く音が聞こえた。


「…まだ部長が会社にいる。直接話してみたら? 今来れるか?」


「ああ。すぐ行く。」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


小さな共用オフィスには、プリンターのインクと古いコーヒーの匂いが漂っていた。


ケンタと一緒に中へ入ると、俺たちの上司——松田さん——がデスクから顔を上げて、にやりと笑った。


「レン君! 久しぶりだな。最近もいい仕事してるじゃないか。」


俺は頭を下げた。

「いつもお世話になってます。」


松田さんは椅子にもたれ直し、目を細めた。

「それで、今日はどうした?」


俺は拳を握りしめた。

「もっと仕事をください。できるだけ多く。夜通しの編集でも、荷物運びでも、何でもやります。」


松田さんは片眉を上げた。

「急だな。」


「わかってます。でも、どうしても必要なんです。」


ケンタが一歩前に出た。

「松田さん……こいつ、本気です。」


松田さんは指を鳴らして引き出しを開け、フォルダーを取り出した。


短納期、3日で5万円。そして倉庫での出荷作業。重労働で2泊で2万5千円。


しばらく考えてから、松田さんはこう付け加えた。


「....あと、深夜のコンビニのヘルプもありますよ。3日入れば1万5千円になります」


私は頭を下げた。

全部やります。ありがとうございます」。


松田さんは私の肩を叩いた。

働き者だね、レン。体に気をつけて。


**

[光の遠近法]。

**


その日の夕方

店を閉める作業をしながら、私は看板をたたみ、レジを閉め、引き出しの中の小銭をすべて数えた。

何もないところから少しでもお金を絞り出そうと。


ふと、携帯電話を見た。

連絡先にある「レン」という名前が小さく光っていた。


指が止まった。

彼に電話しようか?謝ろうか?


でも——自分の声が頭に響く。あの時、あんなふうに怒鳴った自分の声が。


画面をそっと消して、スマホをポケットにしまった。


顔を上げたとき——彼がいた。


ガラス扉の向こうで立っているレン。

あの静かで優しい表情のまま、私を見つめていた。


胸がぎゅっと痛んだ。私は外に出た。


レンは、少し照れくさそうに近づいてきた


「そんなに見つめて、どうしたの? 何かあった?」


口を開いた瞬間、言葉が詰まって震えた。


「……ごめん。今日のこと、本当にごめん。あんなふうに怒鳴るつもりじゃなかったの。怖くて、悔しくて……でもそれは、レンのせいじゃなくて……自分に腹が立ってただけ。」


レンは柔らかく笑った。

あの許すみたいな笑顔——私を泣かせる笑顔。


「ん? それだけ? 俺がそれくらいで怒ると思ってるの?」


ふっと小さく笑って、優しく言った。


「光……俺が君に怒るわけないだろ?」


唇を噛んで、声が震えた。


「家賃のことは……もう気にしないで。お願い。レンにまで負担かけたくないの……。」


レンはそっと一歩近づいた。低く、でも力のこもった声。


「負担? 心配? 光……好きな人の痛みなんて、負担じゃない。ただ、好きっていうことの一部なんだよ。」


真っ直ぐに私の目を見て、胸の奥が崩れ落ちる。


「君のことを心配したいんだ。一緒に背負いたいんだ。だって、君が笑ってくれるなら——それで全部、報われるから。」


視界が滲んで、涙が頬をつたった。


レンの言葉は、誰にも聞こえない小さな誓いみたいに優しく続いた。


「どんなに人生が重くなっても、どれだけ君が壊れそうになっても——俺は隣にいる。働いて、汗かいて、身体壊してでもいい。君が少しでも楽に息できるなら、それでいい。」


震える指で口を押さえた。

止めたはずの声が、指の隙間から漏れた。


弱い街灯の下で、彼のあたたかさが私の不安を包み込んだ。


そして——もしかしたら——少しだけ、信じたいって思った。

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