第15話『顔も中身も、あなたはもう"唯一の推し"です』

 戦いから三日後。


 朝の光が城の屋上庭園を優しく照らしていた。ルミナリスの街並みは、少しずつ日常を取り戻しつつある。市場には人々の笑い声が戻り、子供たちが路地を駆け回る姿も見える。


 咲は一人、石造りの手すりにもたれて街を見下ろしていた。


 あの日のことを思い返す。


 レオンが死にかけた瞬間。

 必死に名前を呼んだ瞬間。

 自分の本当の気持ちに、もう逃げられないと悟った瞬間。


(でも、まだ言えない)


 胸に手を当てる。


 鼓動が、レオンを思うだけで早くなる。顔が熱くなって、胸が苦しくなって、でも幸せで――


(これが、恋なのかな)


 二十八年間、恋愛を避けてきた。推し活に全てを捧げてきた。それが自分の生き方だと信じて疑わなかった。


 でも今は――


「ここにいたのか」


 振り返ると、レオンが立っていた。


 いつもの黒いシャツに革のベスト。訓練着ではなく、休日の装いだ。包帯はもう必要ない。咲の力が完全に彼を癒したから。


「調子はどう?」


「おかげさまで」


 レオンは咲の隣に立った。


 二人で並んで、街を眺める。穏やかな風が頬を撫でていく。


「民が喜んでいる」


「うん」


「お前のおかげだ」


「違う」


 咲は首を振った。


「みんなで勝ち取った平和よ」


 沈黙が流れた。


 でも、心地いい沈黙。お互いの存在を感じているだけで満たされる、そんな時間。


「なあ、咲」


「ん?」


「一つ、聞きたいことがある」


 レオンが咲の方を向いた。


 真剣な表情。でも、どこか緊張しているようにも見える。


「俺は……お前にとって何だ?」


 以前も聞かれた質問。


 でも今は、答えが違う。いや、答えなければならない。


 咲は深呼吸をした。


 朝の冷たい空気が肺を満たす。心を落ち着けて、咲も向き直った。


(もう、逃げない)


「レオン」


 真っ直ぐ、蒼い瞳を見つめる。


 綺麗な色。ソルと同じ色のはずなのに、もう別の人にしか見えない。


「私ね、ずっと考えてた」


「何を?」


「あなたへの気持ちが、何なのか」


 風が、咲の髪を優しく揺らした。


「最初は、顔だけだった」


 正直に告白する。隠すことはもう何もない。


「ソルにそっくりで、それだけで心が動いて……自分が嫌だった」


「ああ」


 レオンは静かに頷いた。責めるような色は欠片もない。


「でも」


 咲は微笑んだ。


「違ったの。あなたは、ソルじゃなかった」


「当然だ」


「うん。不器用で、無愛想で、笑わなくて」


「悪かったな」


 レオンが苦笑すると、咲は慌てて首を振った。


「違う! そこが良かったの!」


「は?」


 きょとんとするレオンに、咲は必死に説明した。


「ソルは完璧なアイドルだった。笑顔も、歌も、ダンスも、ファンサービスも、全部完璧」


 咲の声が少し震えた。


「でも、あなたは違う。不完全で、人間らしくて……」


 涙が一筋、頬を伝った。


 泣くつもりはなかったのに。でも、溢れる想いが涙になって流れ出る。


「訓練に打ち込む真剣な姿も」


 一つ一つ、大切な思い出を数え上げる。


「部下を叱る厳しい声も」


「不器用に私を守ろうとする優しさも」


「たまに見せる、小さな笑顔も」


 咲は涙を拭った。


「いつの間にか、顔じゃなくてあなた自身を見てた。レオンという人を見てた」


「咲……」


「気づいたら、あなたのことばかり考えてた」


 咲の頬が赤く染まった。


「訓練してる時も、執務してる時も、ご飯食べてる時も。『今何してるかな』『怪我してないかな』『ちゃんと休んでるかな』って」


 レオンの瞳が大きく見開かれた。


「それは……」


「これは恋じゃないって、ずっと自分に言い聞かせてた」


 咲は苦笑した。


「だって私は推し活で生きてきたから。恋愛なんて、もうしないって決めてたから」


 でも――


「でも、気づいちゃった」


 咲は真っ直ぐレオンを見つめた。


 涙は止まった。代わりに、晴れやかな笑顔が浮かんでいる。


「私の推しは……レオン、あなたそのものだって」


 レオンの瞳が揺れた。


「推し……?」


「そう!」


 咲は両手を広げた。朝日を浴びて、まるで光の中で踊るように。


「顔も中身も、あなたはもう私の唯一の推しなの!」


 興奮した様子で、咲は続けた。


「推したい! 応援したい! 幸せになってほしい!」


 一つ一つ、指を折りながら数える。


「そばにいたい! 笑顔が見たい! 守りたい!」


 そして最後に、一番大切なことを。


「愛したい!」


 言った。


 ついに、言ってしまった。


 でも後悔はない。むしろ清々しい。


「恋かもしれない。愛かもしれない」


 咲は頬を赤らめながら続けた。


「でも私にとっては、それ以上。推しなの。世界で一番大切な、唯一無二の推し」


 告白は終わった。


 咲の心臓がドクドクと音を立てている。返事が怖い。でも、聞きたい。


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 風だけが二人の間を通り過ぎていく。


 そして――


「ようやく気づいたな」


 レオンが口を開いた。


 その顔には、見たことのない優しい笑みが浮かんでいた。本当の笑顔。心からの笑顔。


「俺はとっくに、お前だけを見ていた」


「え……」


「最初から……いや、正確にはお前が俺を『推し』と呼んだ時から」


 レオンが一歩近づいた。


 大きな手が、咲の頬を包む。


「訳の分からない言葉だった。『推し』なんて」


 親指で、咲の涙の跡をそっと拭う。


「でも、お前がそう呼ぶ度に、なぜか嬉しかった」


「レオン……」


「最初は戸惑った。次第に期待するようになった。そして――」


 レオンの顔が近づいてくる。


「いつしか、お前なしでは生きられなくなっていた」


 吐息がかかる距離。


 咲の心臓が、今にも飛び出しそうなくらい鳴っている。


「お前は知っているか?」


 レオンの声が、優しく響く。


「俺がいつから剣の手入れを増やしたか」


 咲は小さく首を振った。


「お前に会った日からだ」


「え?」


「お前に会えない日は、剣を磨いていた。お前のことを考えながら」


 レオンの告白に、咲の目がまた潤んだ。


「ずるい……」


「何が」


「そんな風に言われたら……」


 咲はレオンの胸に顔を埋めた。


「もっと好きになっちゃうじゃない」


 レオンの腕が、咲を優しく包み込んだ。


「いいじゃないか」


「よくない! 推し活の限度超えちゃう!」


「意味がわからん」


 レオンが苦笑した。


 でも、すぐに真剣な声で言った。


「咲」


「なに?」


「顔を上げろ」


 言われた通りに顔を上げると、レオンの顔が間近にあった。


 蒼い瞳に、自分の顔が映っている。


「俺にとってお前は……」


 レオンが言葉を紡ぐ。


「守るべき聖女で、面倒な異世界人で、そして……」


「そして?」


「愛しい女性だ」


 シンプルな告白。


 飾り気のない、真っ直ぐな言葉。


 でも、だからこそ響く。


「一生、そばにいてくれ」


 プロポーズだった。


 不器用で、ぶっきらぼうで、でも誰よりも真摯な。


 咲の目から、新しい涙が溢れた。嬉し涙が止まらない。


「返事は?」


「決まってるでしょ!」


 咲は涙を拭いながら叫んだ。


「一生推すって決めたんだから! 死ぬまで推し続けるんだから!」


 レオンが困ったような顔をした。


「それは、『はい』ということでいいのか?」


「そうよ! 大好きってことよ! 愛してるってことよ!」


 咲は泣きながら笑った。


「もう、言葉にするの恥ずかしいんだから!」


 レオンも笑った。


 心から、幸せそうに。


 そして――


 レオンが顔を傾けて、咲の唇に自分の唇を重ねた。


 初めてのキス。


 優しくて、温かくて、愛おしさに満ちたキス。


 朝日が二人を祝福するように照らしている。


 長い口づけの後、二人はゆっくりと離れた。


 咲の顔は真っ赤で、レオンの耳も赤い。


「……」


「……」


 急に恥ずかしくなって、どちらも言葉が出ない。


 その時――


「きゃー!」


 聞き覚えのある悲鳴。


 振り返ると、エリーゼが両手で顔を覆って立っていた。その隣でカイルがにやにやしている。


「す、すみません! お茶をお持ちしようと……」


「絶対覗きに来たでしょ」


 咲がじと目でカイルを見ると、彼は悪びれもなく肩をすくめた。


「だって気になるじゃないか。ようやく素直になったんだから」


「カイル……」


 レオンの声が低い。


「明日から訓練、倍な」


「ええ!? 祝福してるのに!」


 わいわいと騒ぐ四人。


 ふと、咲はエリーゼとカイルの距離が妙に近いことに気づいた。


 それどころか、カイルの手がさりげなくエリーゼの腰に回っている。


「あれ? もしかして二人も……」


 エリーゼが真っ赤になって飛び退いた。


「ち、違います! 私たちはただの……」


「まあ、時間の問題だったからな」


 カイルが悪戯っぽく笑った。


「聖女様たちを見てたら、俺たちも素直になろうと思ってさ」


「カイル!」


 エリーゼが恥ずかしそうに彼の腕を叩く。


 でも、その顔は幸せそうだった。


 咲は心から笑った。


 大切な仲間たちも、幸せになっていく。


 これ以上の幸福があるだろうか。


「なあ、咲」


 レオンが咲の手を握った。


「ん?」


「これからも、俺を推してくれるか?」


 咲は満面の笑みで答えた。


「当たり前でしょ! 一生推すって決めたんだから!」


 そして付け加えた。


「でも、ファンサービスは私だけにしてよね」


「ファンサービス?」


「笑顔とか、優しい言葉とか」


 咲は頬を膨らませた。


「他の女の人には見せちゃダメ」


 レオンは苦笑した。


「もともと、お前にしか見せてない」


「本当?」


「ああ」


 真っ直ぐな答えに、咲の顔がまた赤くなった。


 夕暮れの空に、四人の笑い声が響いた。


 推し活も、恋愛も、全部ひっくるめて――


 これが、咲の選んだ幸せの形だった。


 元の世界には戻れない。


 でも、後悔はない。


 だって、ここには最高の推しがいるから。


 一生推し続けられる、たった一人の特別な人がいるから。

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