Op.07 序奏 2/2 - 或る整備士

 森の新鮮な空気を、肺の中にいっぱい溜め込む。閉塞感を感じないのは久しぶりだった。僅かに肌寒い。金髪の少女と青髪の少女が続いて降りてくる。何となく外に出た僕とは違って、二人は明確な目的を持っていた。


「そのまま線路沿いに進めば、大きめの街に着くはず。お土産はライ麦パンね」


 ルイーゼは短く返事をすると、鼻歌を歌いながら、線路沿いに歩き始めた。暫しその背中を見送る。


「……あんたも、なんかお願いしとけばよかったのに」


「ポーランドの特産とかあまり詳しくなくて」


「それこそライ麦パンでしょ、あとピエロギとか……」


 安全ヘルメットを被ったフレデリカは、自身の業務を開始しようとしていた。彼女曰く整備とはいっても、基本的に清掃がメインであるらしい。


 真っ黒な車体は、草原を走っているうちに、うっすらと汚れてしまっていた。明らかに泥や煤がこびりついている。


「ほら、せっかくだしあんたも手伝って。一人だと結構大変だから」


 ぽいっと、ボロボロな雑巾を投げ渡された。「Fryderyka」と、小さくも丁寧に所有者の名前が書かれている。よくよくみてみれば、なかなかに味のある字体だ。"F"には直線がもう一本縦に引かれていて、"y"や"k"は、その飛び出した部分がかなり伸ばされている。本当に使っていいのか聞こうと思ったけど、すでに彼女は側面部に昇っていた。


 手分けして外装を磨き終わり、続いてその大きな動輪の清掃に取り掛かった。大小さまざまな傷跡が走り、錆があちこちを貪っている。そして素人目に見ても、ひどく摩耗しているのが分かった。これまで踏みしめてきた、旅路の長さを物語っている。


「交換しないんですか?」


「できるなら全部とっくにやってる。テセウスの船だなんだって、車掌が騒ぐの」


 はぁ、と彼女はため息を吐いた。彼女が撫でているそれには、明らかに色の違う箇所がある。無理やり溶接をした痕であるらしかった。


「走ってるときに一度割れたんだ。さすがに危ないから取り換えたんだけど、そしたらギャン泣きされてね……だいぶいい歳なのに……」


 諦めたような横顔から、濃縮されたこれまでの苦労が見て取れる。整備士という立場上、機材トラブルがあるたびに駆り出されるのだから、仕方なくはあるのだろうけれど。


「苦労人なんですね……」


 思わず言ってしまった。彼女はちょっと困ったような笑みを浮かべる。若干、雑巾の動くスピードが落ちた気がした。


「まあ、あんたが来てから、ちょっとルーが大人しくなってくれたし。最近は多少楽だけどね」


 そうは言うけれども、その顔はどこか寂しそうだった。


 暫く互いに無言で、ひたすら旅路の疲れを洗っていく。なかなかの重労働で腕が痛くなってきたころ、ふと、隣から鼻歌が聞こえてきた。


「ポロネーズですか?」


「ん? ああ、うん。昔から好きでね」


 ショパン、作品番号 53 、ポロネーズ第 6 番。愛称、"英雄えいゆう"。堂々とした勇ましい第一主題が、左手の単純ながらも推進力のある伴奏に乗って、執拗に何度も叫ばれるのが特徴的だ。彼女が鼻歌で歌っているのは、まさにその有名な旋律。


「昔、たまに弾いてたんだ。ルーが喜んでくれたし」


「……今度、聴かせてもらうことって」


「あはは、いやぁ、もう弾けないよ。ルーに頼んでみたら? あたしよりも上手だしね」


 楽器なんて数年間触っていないし、と彼女は自嘲気味に笑う。是非とも鑑賞したかったけれど、長いブランクの直後だというのに、弾いてくれとは言えなかった。


「オルゴールも持ってたんだ。色々あって失くしちゃったけど」


「それ、すごく高いやつじゃないですか?」


「多分ね。編曲で二分ぐらいになってたけど、箱自体は結構大きかったし」


 他愛もない会話のために、彼女は作業の手を一度止めた。その緑色の瞳に、「Luise」という単語が反射する。そのボロボロな雑巾の、かつての持ち主の名前だろう。乱雑ながらもどこか生き生きとしたその筆記体は、若干掠れながらも綺麗に残されている。


「……あの子、昔はピアノなんて弾けなくてさ。あたしが教えてたんだ」


「……もしかして、だいぶスパルタでしたか?」


「んー、まあ、ちょっと? あの子、初っ端からテンポ崩そうとするもんだから……」


 どうやら、ルイーゼの教え方は彼女譲りであるらしかった。人が変わったように厳しくなるから、ちょっと不思議に思っていたんだけれど。


「今以上にルーは我が強かったし、あたしも遠慮がなかったからね。暴走機関車を止めるために正面からぶつかりに行くみたいな、そんな感じだった」


 居心地悪そうにしているメトロノームとピアノを傍らに、喚きながらボコボコに殴り合う二人の姿が、容易に想像出来てしまった。


「今でもだいぶ遠慮がない気がしますけど」


「う……だって、ルーが悪いし……あれでもだいぶ優しくしてるし……」


 少し自覚はあるらしかった。きまりが悪そうな顔をしながら呟く彼女に、思わずちょっと笑ってしまう。半目で睨まれた。


「でも、ちょっと羨ましいです。そういうこと出来る友人がいるなんて」


 学校にいたころは、話せる相手こそ何人かいたけれど、どうしても壁があった。遊びになんかとても誘えないし、たまたま出くわしても挨拶を交わす程度で。そんな感じだったから、お互い遠慮なんてせず騒げるような関係に、ちょっと憧れがあった。


「……まあ、良い友達を持てたって、自分でも思うけど」


 すこし気まずそうに、照れくさそうに、彼女は目線を逸らした。


「すっかり前に行っちゃったのに。あたしなんかのことをちゃんと見てくれてさ」


 少し震えた声で、彼女は呟く。


「……英雄ヒーローなんて器じゃ、ないのに」


 その横顔からは、言葉の真意も、心境も、窺い知ることなんてできなかった。数秒ほど目を閉じると、彼女は一つ、息を大きく吸った。


「――――はい、この話は終わり! はやく反対側やるよ、まだ客車も残ってるし!」


 そして、ぱっとその顔色を変える。まるで何事もなかったかのようにフレデリカは立ち上がり、そそくさと歩いていく。その後ろ姿に、僕はまたもや声をかけられなかった。




 結局仕事が終わるまで、そこから先のことは何も聞けなかった。他愛もない日常会話なり、グスタフへの軽い愚痴だったりと、そんなのでちょっと盛り上がったくらいで。


「……」


 ぼーっと、少し寂しい部屋で、天井を見上げる。ちょっとお喋りなルームメイトは、街へと出払っていた。あんなに大きい袋を持っていったのだから、そんなすぐに戻ってくることはないだろう。十日ぶりに一人を意識した。


 グスタフの言葉といい、フレデリカの過去といい。ずいぶんと今日はモヤモヤが多い一日だ。強烈な不協和音が解決しないままに、ずっと胸の奥底で余韻が響き続けている。別にそれがダメだとは言わないけれど。


「真実を見出せますように、か」


 乗組員全員がきっと聞かされたであろう、そんな口上の一節。逆に、見出すべき真実とは何なのだろうか。皆で探求すべきものなのか、あるいは、各々の解釈に依るものなのか。はたまた、それっぽく単語を並べた空っぽな言葉なだけか。


 でも、この列車が意味もなく走り続けているとは思えない。わざわざ人間を乗せているのだから。


『知りすぎたら、戻れなくなるわよ』


 あの夜にルイーゼが言った、そんな言葉を思い出した。彼女は、何かを知っているのだろうか。訊けば、答えてくれるのだろうか。結局、"楽団"のことも未だ訊けていないのだ。知りたいことが幾つも浮かび上がってくる。


 不意に、ちょっと乱暴なノックが響いた。


『……昼食だ』


 どこかぶっきらぼうで淡々とした声色が、扉越しに聞こえてくる。ハンナに命令でもされたのだろう。ああもうそんな時間か、と思いながら体をベッドから起こす。まだ両腕は少し痛い。


 せっかくだし、ルイーゼが帰ってきたら訊いてみようか。そう思いながら、僕は部屋を出た。


 でも結局、この日、ルイーゼは帰ってくることはなかった。

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