Op.03 夜想曲 - 決意

 ガタンゴトンと揺れる列車の中、ベッド近くの椅子に腰かけて、ぼーっと月と星を見上げていた。十数分ほど前までは穏やかな草原を眺めていたけれど……あまりの変わらなさに飽き飽きとしてしまった。空の星の配置には見覚えが無く、素人目でもわかる星座さえない。月以外、全てが別の世界だった。


『青の書?!』


 と、この列車の乗員ほとんど全員に驚かれたのが印象的だった。少し強く「帰ってこい」と念じただけで、ボンっと音を立てて、あっさりと帰ってきたこの真っ青な本。あの素のオーバーリアクションを見るに、本当にヤバい代物であるらしい。おかげかせいで、これから暫く、僕は普通の生活には戻れないのだろうなと思う。別に待ってくれる人なんていないからいいんだけれど。冷蔵庫の食材が腐らないかだけ心配だ。


 そんなことよりも、今はもっと気がかりなことがある。


「シャワー使えるよ~」


「は、はい……」


 どういうわけか……いや、理由は分かっているのだけれど、ルイーゼと相部屋になってしまったことだ。僕を持ち込んだのはルイーゼなのだから、その責任を取って彼女が暫く面倒を見るべきだと、あのフレデリカと呼ばれた少女は主張した。一瞬でそれは受け入れられて、本来であれば部外者であったはずの僕が、そこに口を挟めるわけもなく。結果としてこうやって彼女と同じ部屋に詰め込まれた。流石にベッドは別のモノを用意してもらえたけど。車掌に部屋を用意してもらうまでは、暫くこのままらしい。


 一方、ルイーゼはそんな気にしてもいないようで。あっさりとフレデリカの主張を受け入れた上に、今、対岸のベッドで薄着になって寝転んでいる。いくつもの目覚まし時計が周りに置かれていて、どれも微妙に時間がずれていた。


「……」


 なるべく彼女の姿を視界に入れないようにしながら、シャワー室へと向かう。そこそこなサイズの浴槽もついているが、今からお湯をわざわざ貯めるほど待てる性分ではない。蛇口をひねり、ヒートショックさえ考えずに、熱いシャワーを頭からかぶった。


「ふぅ……」


 全身に張り付いた土砂が、一気に洗い流される。血管が膨張して全身がじんじんとする。汗腺が開き、汗が全身を伝う。一度は勢いで押し流された諸々の思考を引き戻す。


 まず、この列車は見た目の割にあまり人が乗っていないらしい。僕を含めて男性三人、女性三人。その場にはいなかった車掌を合わせて、合計七人。


 汽車は先頭車両を除いて四両編成で、うち一両は食堂のようになっている。食堂を除いた車両は、その真ん中を廊下が貫き、向かい合うようにして扉が二枚配置されている。僕を除いて、ちょうど六人分の部屋があるわけだ。


 そして、見た目以上に部屋が広い。車両のほぼ半分を占めているに飽き足らず、そのうえで奥行きにもずいぶんと余裕があるのだ。あの不思議な力を見せられた以上、それもそういうモノだと納得するしかないのだろうか。にしても、あの光景はなかなかにグロテスクだった。


「……」


 芋蔓式で、抱きかかえられたときの感触を思い出してしまった。柔らかかった。バチンと自分の頬を叩く。バカなことを考えるな。


「ずいぶん長いけど大丈夫ー? 倒れてないー?」


 ……どうやら、相当ここにいたらしい。曇りガラス越しに、そんな心配の声が聞こえてきた。


「だ、大丈夫です!」


「そう? とりあえず着替え出しといたから、終わったら着替えてねー」


 ああ、そうだ。着替え。すっかり忘れていた。危うく彼女に裸体を晒しかねなかったのか。内心嫌な汗をかきながら、ガラス越しに感謝の言葉を伝えた。




 全身を拭い、髪の毛を乾かし、少し慣れない服装に着替える。更衣室の扉を開けると、部屋の少し冷たい空気が一気に流れ込んできた。火照った体が冷やされ、心地よい。いつの間にか蛍光灯は消え、アンティーク調のテーブルランプと、月の柔らかい光だけが部屋を包んでいる。


「……ん、待ってたわよ~」


 椅子に腰かけていたルイーゼが、こちらに手を振ってくる。本を読んでいたらしい。バタリと古めかしい本が閉じられた。青い髪が月の光を反射し、うっすらと透ける。テーブルランプの暖色の明かりが、白い肌を照らし、その金色の瞳に溶け込む。……綺麗だ。


「ほら、座って座って。少し話したいことがあるの」


 彼女の催促に従って、もう一つの椅子へと腰掛ける。窓と小さなテーブルを挟んで、彼女と向かい合う形になる。


「んじゃ、まずは改めて。私はルイーゼ。ルイーゼ・ヴァン・ベートーヴェン。よろしく」


名高武人なだかたけひと、です」


 差し伸べられた彼女の手を握る。柔らかい。その細くて長い指は、正にピアノ向きだ。目いっぱい広げあったら、手の大きさは負けるかもしれない。祖父の手を思い出した。あの人のは節くれ立っていたけれど。


「それで、さっそく本題なんだけど」


「祖父の……英雄ひでおのことですか?」


 食い気味になった僕に、彼女は目をぱちぱちとさせる。彼女が何かを聴き損ねていたことはよく覚えている。きっと祖父のことだったのだろう。


「まあ、ええ、その通りよ。おじいちゃんだったのね」


「はい。ちょっと変だけど優しい人でした。物心ついたころから、両親代わりに僕のことを育ててくれて……恩人なんです」


 だから、そう易々と本を渡す気にはなれなかったのだ。一度折れかけてしまったわけだけど。


「うーん……そんな人がねぇ」


「その、祖父は昔、何かをしたんですか? あいつの口から名前が出てきたとき、びっくりして……」


 確かに、祖父は昔のことをあまり話そうとしなかった。というか、ほとんど聞いたことがないかもしれない。やんちゃだったと、適当にはぐらかされた記憶がある。


「私も詳しくは知らないの。でも……」


 彼女は少し言い淀んだ。月へと短くため息を吐くと、夜景を見ながら言葉を続ける。


「"楽団"の大幹部だったと、聞いているわ。ある日突然、"青の書"と一緒に行方を眩ませたとも」


 ……"楽団"。あの仮面の男女が所属しているらしい組織。あのアーノルドという男も、きっとそこの人間なのだろう。


 なぜ祖父は"楽団"にいたのか。なぜあの本を持ち出したのか。なぜ僕に託したのか。なぜ、なぜ、なぜ。突如として明かされた、祖父の過去の欠片。それが僕の頭に深く刺さる。その傷から、いくつもの疑問が流れ出す。


「……ねぇ」


「……はい」


 シャワーですっきりしたはずの頭が、またもやごちゃごちゃとしてきたところで。彼女が神妙そうな面持ちで声をかけてきた。


「きっと今、君は知りたいことが山積みになっていると思うの。おじいちゃんのこと、私たちのこと、"楽団"、青の書、それに……これからのこと」


「……」


「私としては、答えられるものには答えたい。分からないことは、これから一緒に理解していきたい。でも、その前にひとつだけ聞かせてほしいの」


 何も言わず、首を縦に振る。ただ、彼女の言葉を待つ。


「知りすぎたら、戻れなくなるわよ。きっと何回も大変なことに巻き込まれる。何度も辛い思いをするかもしれない。最悪、死ぬ可能性だってあるわ。結局、真実もなにも分からないまま」


「――それでも君は、知りたいって思う? 私たちみたいになる覚悟はある? この列車で火葬されることになってもいいって、宣言できる?」


 厳しくも、どこか心配も混じった様な声色で、彼女は捲し立てる。金色の瞳が、まっすぐ僕を映した。数秒の沈黙が、嫌に長く感じる。ガタンゴトンという音が、やけに喧しい。


「……ルイーゼさん」


「……なに」


 彼女のことを、見つめ返す。月光も何も、気にならないくらいに。


「――これから、よろしくお願いします」


 汽車が迎えに来たとき、彼女は確かにそう言ったから。意趣返しも込めて、そう告げてやる。一瞬だけぽかーんとした顔を浮かべていたけれど、言葉を咀嚼するうちに、ようやく理解したらしい。目を見開いて、髪を揺らした。


「……してやられた気分だわ」


 そう言って彼女は、ちょっと困ったように、小さく笑った。


 祖父が僕に本を託したのには、きっと何か理由がある。死ぬまで言葉にできなかった、あるいはしなかった、何かが。今の僕にできる最大の恩返しは、きっと、それに応えることだろう。


 これまでの恩に報いるのだと、月の光の下、密かに決意した。

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