過去を隠した音楽鉄道と、戦いの中で真実を征く。 - La musique de fer -

鳥鳴ムジカ

序奏

Op.01 前奏曲 1/2 - 夜道にて

 満月の昇る夜、僕のことを覆わんとする、いくつかの影があった。


「それを、渡してくれないかい?」


 そう言って、目の前の西洋人は目を細めながら、柔らかな笑みを浮かべる。彼が侍らせている三人の男女は皆、音符を点対称にしたかのような仮面をつけていた。そのうえ、近くにコンサートホールなんかないのに、彼らは皆、指揮者や奏者のような服装をしている。鈴虫が鳴くような田舎の夜道に、思わず心臓が跳ねるほどの違和を生み出していた。


 何か心当たりがあるとすれば、僕が今胸元に抱いている、真っ青なハードカバーの本だけ。文字もなにも刻まれておらず、黒いシミが所々にあり、上から何枚もの付箋が頭を出している。一見辞書のようにも見えるけど、まだ中身は見ていない。彼らの目的はきっとこれなのだろうと嫌でもわかった。


 ただ、祖父の家での用事を済ませて、運動ついでに歩いて帰ろうと思っただけだったのに。夜道はこうも危険なのかと思ってしまう。


「すみません……祖父の遺品でして、さすがに……」


 バクバクと喧しく叫ぶ心臓を鎮めながら、僕はなるべく柔らかに断る。こんな時間帯に背後から話しかけてきた挙句、なんの前置きもなしに、祖父が大切に保管していたものを要求してきているのだ。その変な見た目も相俟って、怪しいことこの上ない。だから、一応理由も付けたのだけれど。


「……」


 でも、どうやら癪に障ったようだった。柔らかく閉じていた目が薄っすら見ひらかれ、その口角が僅かに落ちる。


「……私は、君のおじいちゃんの知り合いでね。彼が死んだらその本を譲り受ける約束をしていたんだ」


「ええと……でも、遺言書には僕が相続するようにって」


 またもや彼の口角が落ちた。でも、今ので確信した……どうやらこれを渡してはいけないらしい。一種の詐欺のようなものだろうか。それでこんな本を欲しがるのもよくわからないけれど。


「……ヒデオの野郎め」


 ぼそりと、彼は呟いた。ヒデオ……英雄か。確かに、僕の祖父の名前だ。ただ、その言いぶりには親しみではなく、明らかな敵意がこもっている。知り合いなのは確かなのかもしれないが……きっと良い関係ではなかったのだろう。そっと僕は、彼から距離を取ろうとした。


「チッ、もういい」


 そんな僕に気が付いたらしい。金髪の男が、霞んだ紫の瞳を見せた次の瞬間、彼は粗々しく手を叩く。


「捕えろ」


 そんな短い命令の直後、彼の後ろにいた仮面の男女が、一斉にこちらへと向かってきた。直感的に分かる――――捕まってはならないと。しっかりと本を抱え、体を捻り、強く地面を蹴り飛ばした。




 あれから暫く走っただろうか。あぜ道はとうに獣道へと早変わりし、鈴虫の音は正体不明の動物の鳴き声になっている。それでもなお、彼らは僕のことを追いかけていた。こっちが足をパンパンにして、ゼェゼェと息を漏らしながら山道を駆けているのにたいして、息切れする様子も見せず、速度もほとんど落とさず、ただこちら目掛けて突き進んでくる。


「なんなんだ、なんなんだよお前ら!」


 そんな叫びが、虚しく森に響き渡る。スラックスにシャツにジャケットと、まったく森林向きの恰好ではないせいで少し動き辛い。


 幸いなのは、彼らもこの地形に手間取っている点だろうか。ならば一日の長はこちらにある。今でこそ記憶がだいぶ薄まってはいるが、小学校低学年のころ、よくここらで遊んでいたのだ。この森があの頃からあまり変わってないのならば、この先に撒けそうなポイントがあるはずで――――


『――――』


 ――ふと、どこからか澄んだピアノの音が聞こえてきた。


 ピアノ? 過疎化が進み切った田舎の、それも真夜中に? こんな森の中で? 途端にいくつもの疑問符が浮かびあがる。何を弾いているのかは、反響のせいでよくわからない。もしかしたら、あの男の仲間かもしれない。僕の気を散らすための細工かもしれない。


 いくつもの疑念と疑問が脳内を駆け巡る。それでも、相も変わらず、仮面たちは僕の首根っこを掴まんと追いかけてきている。


『――』


 また、聞こえてきた。今度は先ほどよりも、少し近くで。どうやらいつの間にか、別の道を進んでしまったらしい。このままでは撒きポイントに向かえない。でも、引き返すわけにもいかない。そして、夜中の森林をかき分ける勇気はない。ただ、今はこの音源へと向かうしかなかった。


 暫く走っているうちに、この道を知っていると、軋む足が言った。ごちゃつく頭の中から、一つの圧縮ファイルが取り出され、そして解凍される。確かこのまま進むと、少し開けた場所に出るはずだ。星が見たいとずっと騒ぐ僕のために、祖父が何度も連れてきてくれた、思い出の空間。


 木々が籠らせていたピアノの音色が、真っすぐに聞こえ始める。頭上を覆う枝葉が少なくなる。最後のカーブを曲がり切った瞬間、ぱっと視界が開けた。空に浮かぶ満月が照らす、大きくて平らな岩の上。青髪の少女が、白黒の鍵盤を叩いている。


『――――――』


 ベートーヴェン、作品番号27-2、ピアノソナタ第 14 番――愛称、"月光"。今聞こえているのは、その第二楽章だ。柔らかな月夜の下、可憐な花々や愛くるしい小動物たちが踊っているかのような、繊細で美しい曲。知名度は少々劣るかもしれないが、重く憂鬱な第一楽章と、情熱的で劇的な第三楽章を効果的に繋ぐ、縁の下の力持ちだ。祖父も好んで弾いていたっけか。


 ふと、真後ろから聞こえてきた足音にハッとする。この状況で聞き惚れて立ち止まるとか、何てバカなんだ、と自分を責めた。慌てて走り出そうとするが、首を根っこを掴まれる。


「ぐぁっ!」


 襟でぎゅっと首が締まる。声が漏れた。少女は驚いた様子で鍵盤から手を離すと、こちらに金色の瞳を向けた。演奏を邪魔して申し訳ないなと、場違いなことを思ってしまう。しかし、理性は生存本能に抗えない。脳が酸素を求め、勝手に四肢に命令を出してくる。仮面の男女が何人も集まってくる中、気が付いたら、片腕を彼女に向けて伸ばしていた。


「……」


 少女は暫く怪訝そうにこちらを見ていたが、僕から目線をずらした途端、血相を変えた。仮面たちの存在に気付いたらしい。同様に、仮面たちも彼女の存在に気が付く。


「"基礎音鳴・零明ハノン・ツェードゥア"」


 視界の横で誰かの腕が伸ばされたかと思うと、仮面の一人が低い声でそう唱えた。途端、ピアノの音色が響き、その掌から白い光線が放たれる。単調なドレミの音階が駆け上がっていくにつれ、その速度を増し、岩の上の少女に襲い掛からんとする。


「危ない!」


 首が締まっていることも無視して、思わず叫んだ。ゴリっと頸椎が音を鳴らして擦れ、痛みが走る。しかし、彼女はフッと笑みを浮かべる。まるで小さな羽虫を払うかのように、手の甲で光を弾き飛ばした。途端に仮面たちにどよめきが走る。軌道を変えられた光は、その先にあった木に直撃し、太い幹に大きな穴を開けた。


鳴音めいおん付きでこれ? しかも詠唱してるとか、まだまだ素人みたいね」


「き、貴様、何を!」


「少しは自分で考えてみたら?」


 次の瞬間、一瞬その青い髪が舞ったかと思うと、彼女が岩場から、魔法のように消えた。少し遅れて、ピアノと椅子もどこかへと消え去る。その場にいる全員が思わず呆然としていると、背後から悲鳴が聞こえてきた。そのまま鈍い音が数発。


「な、なぜっ」


「だから、自分で考えなさいって」


 そんな短いやり取りが聞こえる。直後、視界が大きく揺れるのと同時に、首元の圧迫感から解き放たれ、地面に投げ出された。


「げほっ、げほっ……!」


 脳が酸素を求め、肺が何度も膨らんでは萎む。せき込みながらも、朦朧としかけていた意識を無理やり戻す。……よし、本は無事なようだ。ひとまず窮地は脱したらしく、安堵で胸をなでおろす。そのまま夜空を見上げていると、声が聞こえてきた。


「君、大丈夫?」


 その方へ目線を向けると、先ほどの青髪の少女が、こちらに手を差し伸べているのが見えた。


「あ……ええと、はい。ありがとう、ございます」


 その柔らかな手を取り、体を起こす。無理が祟ったせいか足に激痛が走り、立ち上がることはできなかった。周囲をざっと見渡してみると、あの仮面たちが呻き声を上げながら辺りにのさばっていた。一人は仮面を砕かれたらしく、青髭が目立つ顔を月へとさらけ出している。


「災難だったわね、"楽団"の連中に目を付けられるなんて」


「楽団?」


 あまり聴きなじみのない言葉だ。確かに全員、仮面を除けばオーケストラにいそうな恰好をしていたけれど。まさか、本当にその手の団体に所属している人たちだったのだろうか。


「……知らないの?」


 しかし、彼女は怪訝そうな顔をして、逆に聞き返してきた。


「……地元の交響楽団ですか?」


「はぁ~……本当に知らなさそうね」


 僕の回答に、彼女は頭を押さえながらため息をついた。そんな素っ頓狂なことを言ってしまったのだろうか。


「一般人に手を出すなんて……やっぱりだめね……」


 彼女は小さくため息をつくと、ふるふると頭を振り、再び僕の顔を見る。


「君、狙われた心当たりとかある?」


「ええと……多分、これだと思います」


 持っていた青い本を、彼女に差し出す。一瞬怪訝そうな顔を浮かべたが、すぐにその顔色は驚愕に染まる。


「こ、これって……!」


「――"青の書"」


 ふと、聞き覚えのある声が、岩場のほうから響く。ぞわりと悪寒が全身を駆け巡り、反射的に本を抱え込んだ。ゆっくりと視線をそちらに向ける。


「我々が探し求めた、"聖楽典せいがくてん"の一つ。ヒデオが死んだ今、さっさと奪還するつもりだったのだがな……」


 あのときの、金髪の男。一筋の光もない紫色の瞳を隠さず、口角も下げ、どこか髪の毛も乱れている。口調もどこか尊大なものになり、本性を隠そうともしない。いったい、いつの間に。隣の少女のように、瞬間移動でもしたとしか思えない。少なくとも、あの時は追ってきていなかったはずだから。


「あら、アーノルド。元気だった?」


「チッ……またか、ルイーゼ。毎度邪魔してくれるな」


「今回はそっちの不手際よ。"基礎音鳴ハノン"レベルでも詠唱が必要とか、本当に取り返すつもりだったの?」


「上層部のバカどもが油断しやがった。それに、ヒデオのヤツが仕込んでいたみたいだからな」


 二人のやり取りに紛れて息を殺していると、アーノルドと呼ばれた男がこちらに顔を向けた。思わず冷や汗が流れる。


「最後通牒だ……青の書を渡せ。『私はこの本の所有権を放棄します』と宣言しろ。さもなくば、今この場で殺す」


 明確な殺意が、全身の筋肉を強張らせた。本を抱きしめる力が強くなる。今すぐ、この場から逃げ出してしまいたくなる。しかし腫れ上がった足がそれを許さない。冷や汗が止まらない。背中がぐっしょりとする。


 ああ、宣言してしまおうか。命に替えてまで大切だ、というわけでもないのだから。たかが本だ。ただ、祖父が遺してくれただけの……。……でも。


 ぽん、と、肩に手を置かれた。


「私に任せて。君も本も、絶対に守ってあげるから」


 ルイーゼと呼ばれた少女が、自信に満ち満ちた微笑みを浮かべながら、力強く言った。柔らかな月光が、彼女の透き通るように白い肌を際立たせる。純金のような瞳がひどく輝いている。思わず数秒ほどその顔に見惚れていたけれど、結局僕は、自分の首を縦に振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る