第5話 血を知らぬ刃
夜の山道を、三つの影が進む。
風は止み、木々は眠り、虫の音すらない。世界が息を潜めている。
ただ、踏みしめる土と葉の音だけが、静かに響いていた。
先頭を歩く弥一の背は、相変わらずぶれない。
その背中を宵子がぴたりと追い、最後にセリアが、わずかに距離をあけてついていた。
言葉はない。けれど、誰もその沈黙を破ろうとしなかった。
――ここで誰かを殺すことになる。
セリアの胸に、そんな確信にも似た不安があった。
背に背負った剣。腰に差した短刀。
どちらも、まだ一度も血を吸っていない。
だが、今夜――それが変わるかもしれない。
喉が乾く。けれど、水を飲む気にもなれなかった。
足は止めない。けれど、進むたびに、自分の鼓動が大きくなっていく。
ふと、宵子が小さく呟いた。
「……気が乱れてきた。そろそろよ」
弥一は答えず、ただ歩を速めた。
セリアもその言葉の意味を察し、剣の柄にそっと手をかけた。
夜の闇が、深くなる。
けれどその先に、確かに“何か”が待っている気配がした。
木々が開けた先に、それはあった。
かつて神域と呼ばれた場所――けれど今は、その面影すら朧げだった。
石の鳥居は片方が傾き、根元には苔が這い、蔦が絡みついている。
参道は雑草に覆われ、踏み固められた痕跡すらない。
その奥に、朽ちかけた拝殿。
屋根は抜け、柱は割れ、祠の中は空っぽだった。
「……ここ、昔は結界だったのかもね」
宵子が低く呟く。
彼女の目は、空になった神棚の奥――剥がれかけた護符に注がれていた。
セリアは、ただその光景を見つめていた。
誰にも触れられず、誰にも祈られず、
崩れていくのを待つだけの“かつての神様の家”。
その痛みが、喉の奥に刺さった。
(……こんな場所で、あの人たちが……)
まだ見ぬ“囚われた人々”の姿が、頭の中で影となって揺れる。
セリアは、短刀の柄に添えた手に力を込めた。
境内には、火があった。
木材を無造作に積んで燃やした焚き火の周囲で、野盗たちが笑い声を上げていた。
裸の上半身に汚れた包帯を巻いた男が、血まみれの鉄棍を振るう。
そして、その男の向かいには、青白い肌の妖(あやかし)がいた。
獣のような爪、裂けた口元、片腕に鉄の鎖を巻き付けた異形。
人間と妖――二つの異なる“存在”が、血を滴らせながら睨み合う。
「賭けるぞ! 次の一撃で決まるか!」
「どっちが先に内臓見せるかって話だな、ヒャハハッ!」
酒瓶が飛び交い、笑い声が夜の神社に響く。
誰も止めない。
誰も助けない。
これは見世物だ。
――命を賭けた、“遊び”。
その外れでは、うずくまった男が数人に囲まれ、
腹を蹴られ、顔を殴られ、骨の軋む音に歓声が上がっていた。
「ほら、次は鼻だ! 潰したらどんな顔すんだろな!」
「耳もいけんじゃね?」
焚き火の光に照らされたその顔は、みな歪んでいた。
笑っていた。
狂っていた。
拝殿の奥――かつて祭壇があったはずの場所には、粗末な小屋がいくつも並べられていた。
薄い木板と汚れた布で囲われたその空間に、人の気配がある。
女たちがいた。
顔を伏せ、膝を抱え、肩を震わせていた。
衣服は乱れ、肌は煤と埃で汚れ、やつれきった頬が夜の冷気に晒されていた。
その中に、子どももいた。
五歳ほどの幼い女の子が、母らしき女性の腕の中で目をこすっている。
声を上げることもなく、ただ、涙だけがつぅっと頬を伝っていた。
彼女たちの目には、光がなかった。
焦点も定まらず、ただ“何も見ない”ようにするために開かれているだけの瞳。
そのとき――
(……私も、こうなっていたかもしれない)
どこか遠くから、そんな声が聞こえた気がした。
記憶。
死体が転がる戦場、煙の立つ村の外れで、
粗野な傭兵たちに“戦利品”として腕を掴まれたあの瞬間。
あのとき宵子がいなければ。
あのとき誰も手を差し伸べてくれなければ――
セリアは今、あの小屋の中にいたのかもしれない。
賽銭箱の裏。
拝殿の裏手を回り、朽ちた床板を踏み抜くように奥へ進むと、
板張りの座敷に、ぽつんと灯る小さな灯が見えた。
そこには、野盗の頭がいた。
長身で痩せぎす、顔の半分に火傷の痕が広がっている。
髪は油で固まり、ひどく脂っこい臭いがあたりに満ちていた。
男は、一人の美しい村娘を横に座らせ、肩に手をかけていた。
「なあ、笑えよ。な? 笑ってりゃ、楽になれるんだって」
娘は引きつった笑みを浮かべていた。
口角だけが上がり、頬はぴくぴくと震えている。
目は笑っていない。ただ、どこかを見ていた。
その背後には、布をかけられることもなく、
数人の亡骸が、重なるように転がっていた。
空気は淀み、木の柱には古びたお札が無惨に破れて垂れている。
かつてここが“神を祀る場”だったとは、もはや誰も思わないだろう。
男は、酒瓶を口に運びながら、
どこかに向けて独り言のように呟いた。
「……神も、正義も、誰も来やしねぇよ」
拝殿の脇にある、ひときわ狭い小屋。
薄い布と壊れかけの木板で囲われたその前に、一人の見張りが立っていた。
宵子は手をかざし、口元で小さく何かを呟く。
空気がふわりと揺れ、見張りの男がふと背後を振り返ったその瞬間――
ザクッ。
弥一の短刀が、男の喉に深く沈んだ。
悲鳴も上げさせず、音もなく崩れる。
宵子と弥一は、そのまま奥へ進んだ。
だが、セリアだけが、小屋の前で足を止めていた。
(……ここに、いる)
布の向こうに、かすかな息遣いと、誰かの気配があった。
セリアはそっと手を伸ばし、布をめくる。
中には、何人もの女性と、子どもたちがいた。
皆、身を寄せ合い、怯えきった目でこちらを見た。
その視線が、一斉にセリアに向けられる。
セリアは震える口で、必死に言葉を紡いだ。
「……もう、大丈夫」
――その瞬間だった。
「ひっ……いやああああッ!!」
甲高い悲鳴が、小屋の中に響いた。
次の瞬間には、何人かの女たちが泣き叫び、身を引いていた。
セリアは呆然と立ち尽くす。
どうして――?
(私……助けに、来たのに……)
だが、彼女たちには伝わらなかった。
異国の顔立ち。 見知らぬ言葉。 剣を携えた姿。
“救い主”としてではなく、“新たな暴力”として映ってしまったのだ。
そして――その叫びが、野盗たちの耳に届いた。
叫びが走った瞬間、境内の空気が一変した。
酒瓶が割れ、焚き火の周囲にいた野盗たちが一斉に立ち上がる。
「なんだ、女どもが騒いでるのか?」「様子見てこい!」
その声がまだ消えないうちに――
宵子が、境内の影からふっと姿を現した。
その指先から、淡い紫の光が舞い、
空気が揺れ、炎が弾け、突風が荒れ狂う。
「――眠れ」
幻術と術札が交差し、視界がゆがむ。
野盗たちが目を押さえ、悲鳴を上げた。
その隙に、弥一が動いた。
短刀を捨て、腰の刀を抜く。
そして一歩――一太刀。
その動きに、躊躇はない。
すれ違いざまに野盗の首が跳ね、血が飛ぶ。
「う、うわああああっ!!」
「化け物だ……!」
野盗たちは刀や斧を手に応戦を始めた。
その中には、妖の姿も混じっていた。
人間と異形。
恐怖と混乱。
怒号と断末魔が入り乱れる境内。
そして――
セリアの前に、一人の男が立った。
彼女と同じくらいの年。
血に濡れ、剣を構えた、まだ少年の面影を残す野盗。
「……おまえ、敵だな」
その目に、怯えも疑問もなかった。
ただ、剣を振るう者としての敵意だけがあった。
セリアは短刀を構える。
でも、手が震えている。
男が踏み込んだ。
反射的に、セリアの刃が前に出た。
ぐっ――
刃が、肉を裂いた感触。
男の体が、セリアの目の前で止まり、崩れる。
セリアの足元に、赤いものが広がった。
彼女の胸が、呼吸を拒むように締めつけられる。
口を開いた。
声が出ない。
そして――嘔吐した。
酸っぱく、苦いものが喉を逆流する。
視界が滲み、膝が砕けた。
誰かの声が遠くで叫んでいる。
けれど、何も聞こえない。
そんな中、視界の端で見えた。
弥一が、あの野盗の頭を斬り伏せ、
その首を無様に命乞いされながらも、無言で斬り落とす姿。
その刃の軌道が、
父の最期と重なった。
「や……っ……!」
セリアはもう一度、吐いた。
涙も出ない。
ただ、ぐちゃぐちゃに崩れた音だけが、自分の中で鳴っていた。
夜は、まだ明けきらなかった。
神社の外れ、崩れかけた山小屋の中。
焚き火の残り火が、ぱちりと音を立ててはじけた。
セリアは、膝を抱えて座っていた。
震えは止まっていたが、視線はどこにも向いていなかった。
弥一は、無言のまま刀の手入れをしている。
宵子はその傍らで、小さな巻物を広げ、何やら筆で文を書いていた。
やがて、それを細く巻き、
一羽の黒いカラスの足に結びつける。
「行きなさい。あの町の上まで――届きますように」
呟きとともに放たれたカラスは、
すっと空へと消えていった。
セリアは、その姿を見上げることもなく、
ただ、火を見つめていた。
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