第6話 踏み出した一歩、震える声で

『――また繰り返す気!? 『あの日』と、同じ過ちを!』


凛さんの、悲痛な叫び。

その言葉が、冷たい楔のように私の胸に突き刺さって、ドアノブにかけたままの指先から、急速に血の気が引いていく。

あの日。同じ過ち。

それは、私が知らない、湊くんと凛さんだけの時間。

私が、決して踏み込んではいけない、聖域のような場所。


(怖い)


今すぐ踵を返して、ここから逃げ出してしまいたい。

聞かなかったことにして、また図書室の隅で、息を潜めて、世界の終わりを待つ、元の私に戻りたい。

でも。


『――楽しいことに意味とかいる?』


太陽みたいな星良さんの笑顔が、脳裏をよぎる。

そうだ。もう、逃げるのはやめだ。

意味なんてなくたっていい。理由なんて、後付けでいい。

ただ、私は――。


(ここに、いたい)


心臓が、ドクン、と大きく鳴った。

それは、恐怖の音じゃなくて、決意の音だった。

私は、震える指先にぐっと力を込めて、静かに、でも、はっきりと音楽室の扉を開けた。


ギィ……、と小さな蝶番の音が、二人の口論をぴたりと止める。

湊くんと凛さんが、ハッとしたように、同時に私を見た。

驚きに目を見開く湊くん。

泣きそうな顔で、唇を噛みしめる凛さん。

西日が差し込む埃っぽい音楽室に、気まずい沈黙が重く、重くのしかかる。


「……あの、」


最初に声を発したのは、私だった。

震えを隠せない、情けない声。でも、私は逃げなかった。

まっすぐに、二人を見つめて、言葉を続けた。


「ごめんなさい。さっきは、逃げ出して……」


一度、言葉を切って、ぐっと唇を噛む。

大丈夫。言える。今の私なら。


「でも、もう一度、歌わせてください」


「意味とか、理由とか、まだよく分からないけど……っ。でも、私も、ここで、湊くんや凛さんと一緒に、音を鳴らしたいです!」


言い切った瞬間、ぶわっと涙が込み上げてきた。

初めて、自分の意志を、ちゃんと言葉にできた。

情けなくて、空っぽで、地味な私でも、ここにいたいって、願ってもいいんだって、初めて思えた。


私の叫びにも似た宣言に、二人は言葉を失っていた。

湊くんは、少しだけ目を見開いて、私のことをじっと見つめている。その瞳の奥の色は、まだ読み取れない。

一方、凛さんは、気まずそうにふいっと顔をそむけた。


「……勝手にすれば」


ぼそり、と投げやりな声。

でも、その横顔が、西日に照らされて、少しだけ赤く染まっているように見えたのは、きっと私の気のせいじゃない。

凛さんなりの、照れ隠しなんだって、なぜだか分かった。


すると、湊くんが、ふっと息を吐くように、口元を緩めた。

それは、ほんの一瞬だったけど、すごく優しい、柔らかな笑みだった。

きゅん、と私の心臓が、甘く痛んだ。


「よし。じゃあ、もう一回だ」


湊くんは、それだけ言うと、力強くギターを構えた。

その音に導かれるように、凛さんもカツン、とスティックを構え直す。

三人の間に、さっきまでの険悪なムードとは違う、どこか澄み切った、新しい空気が流れ始めた。


私は、マイクの前に立つ。

大きく、大きく深呼吸。

湊くんのギターが、凛さんのドラムが、私を待ってくれている。

大丈夫。

今度は、迷わない。


湊くんが弾き始めたイントロに乗せて、私は、今度こそ、まっすぐな気持ちで歌い始めた。

声は、まだ少し震えていたかもしれない。

でも、そこには確かな「意志」があった。

ここにいたい、という私の叫びが、音になっていく。

二人の音が、私の声を支え、導いてくれる。

一人じゃない。

その感覚が、どうしようもなく嬉しくて、私はもっと、もっと、と心のすべてを声に乗せた。


一曲が終わる頃には、私はまた息を切らしていたけど、さっきまでの絶望感はどこにもなかった。

むしろ、体中が熱くて、心地よい高揚感に満たされている。


「……悪くない」


沈黙を破ったのは、湊くんだった。


「だが、全然足りねえ」


彼は、厳しい目で私たちを見据える。


「足りないものだらけだ。リズムも、声量も、表現力も。……それに、」


そこで、彼は言葉を切った。


「ベースも、な」


ベース。

その言葉に、私はハッとして、星良さんの顔を思い出した。


「あの……!」


私は、恐る恐る手を挙げる。

湊くんと凛さんが、「なんだ?」という顔で私を見た。


「ベースなら……もしかしたら、いるかもしれません」

「は?」

「私のクラスメイトで、天野星良さんっていう子が、最近ベースを始めたって……」


私の言葉に、凛さんは盛大なため息をついた。

「はぁ? また素人連れてくんの? あんた、懲りないわけ?」

「で、でも、すごくキラキラしてて、楽しいことが大好きで……私とは、正反対みたいな、子です」

「だから、それが問題なんじゃない!」


猛反対する凛さんを、湊くんが手で制した。

意外にも、彼の瞳は、退屈そうじゃなくて、どこか面白そうに輝いている。


「……面白い。そいつ、どんなやつだ?」

「えっと……太陽みたいに明るくて、誰にでも優しくて、いつも笑ってて……」

「……なるほどな」


湊くんは、少し何かを考えると、ニヤリと口の端を上げた。


「分かった。一度、会ってみる。七瀬、明日、そいつをここに連れてこい」

「ちょ、ちょっと、湊!」


凛さんが慌てて声を上げるが、湊くんは聞く耳を持たない。


「今の俺たちには、絶望だけじゃなくて、希望の色も必要かもしれねえだろ」


彼の意味深な言葉に、私はドキリとする。

私(絶望)と、星良さん(希望)。

湊くんは、最初から、そういうバンドを創ろうとしてるんだろうか。


こうして、またしても半ば強引に、新メンバー候補との面会が決まってしまった。

凛さんはまだ不満そうだったけど、湊くんが一度決めたことは、もう覆らないみたいだった。



その日の練習は、なんだかんだで、今までで一番充実していた気がする。

帰り道、私は一人だった。

星良さんに、なんて連絡しよう。そう考えながら、夜道を歩く。

『突然ごめん、バンドに興味ない?』なんて、あまりにも怪しいかな。


スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。

指が、画面の上を何度か滑って、止まる。

その時だった。


ブブブッ、ブブブッ。


突然、スマホが震えて、画面に「非通知表示」の文字が浮かび上がった。

え、誰……?

いたずら電話かな。そう思ったけど、なぜか無視できなかった。

恐る恐る、通話ボタンを押す。


「……もしもし?」

『…………』


無言。

やっぱり、いたずら……?

切ろうとした、その瞬間。


『……もしもし、七瀬さん?』


聞こえてきたのは、信じられないくらい、か細くて、震える声。

でも、その声には、聞き覚えがあった。


「え……凛、さん?」

『……うん。私、だけど』


凛さんからの、突然の電話。

驚きすぎて、言葉が出てこない。

どうして、私の番号を? ううん、それよりも、なんで電話を……?


『あのね……』


電話の向こうで、凛さんが、一度、息を吸う音が聞こえた。

そして、絞り出すような声で、こう続けた。


「明日の子、連れてくる前に……一つだけ、あなたに話しておかなきゃいけないことがある」


「……『あの日』のこと。……湊の、過去のことよ」

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