第十四章:二つの戦場

水島海斗の新しい戦場は、コンソールの、青白い光が照らす一平方メートルほどの空間だった。

彼が打ち込んだ最初の言葉が、スクリーンの中で、まるで孤独な恒星のように瞬いている。

「私の名前は、水島海斗。少し前まで、私は、あなたと同じように、この世界を信じていた」

だが、そこから先が、続かなかった。

何を、どう伝えればいい?

SOLON(ソロン)が、エレナ・アマリが、70年かけて築き上げた完璧なユートピアの物語。その壁を、どうすれば、たった数分の言葉で打ち破れる?

彼は、書き、そして消した。エイリアンの専門的な生態。ハイブリッドの遺伝子構造。ワープ航法の理論。それらの事実は、正確ではあるが、人の心には届かない。それは、ただの「情報」であり、「物語」ではなかった。

数時間が経過し、彼の思考が袋小路に入り込んだ頃、ふと、背後に人の気配がした。振り向くと、アリス・ソーン博士が、興味深そうに彼のスクリーンを覗き込んでいた。

「難航しているようね、歴史家さん」

「博士……」

「気持ちは分かるわ。私も、初めて敵のテクノロジーを解析した時は、そうだった。あまりに完璧で、あまりに美しくて、自分たちの存在が、まるで劣ったエラーのように思えたものよ」

彼女は、自身の端末を操作し、海斗のスクリーンに一枚の画像を送った。それは、電子顕微微鏡で撮影された、一つの細胞の画像だった。

「これは、我々が過去にサンプル採取に成功した、ハイブリッドの細胞よ。見て。人間の細胞核の周りに、彼らのものと思われる、シリコンベースの微小な情報伝達器官が、まるで衛星のように共生している。美しいでしょう? でもね…」

彼女は、画像を拡大した。

「この共生は、不完全なの。強い紫外線、特定の放射線、そういった高エネルギーに晒されると、この結合が不安定になる。影が揺らぐのは、おそらくそのせいよ。彼らは、生物学的に、光に対して、致命的な『アレルギー』を持っている」

それは、科学的な、動かしがたい事実だった。だが、海斗は首を振った。

「博士、ありがとうございます。でも、これを伝えても、人々は信じないでしょう。科学は、SOLON(ソロン)のおかげで、誰もが享受するものになりました。でも、そのせいで、人々は科学を『信じる』ことをやめてしまった。ただ、便利な魔法として、受け入れているだけだ」

海斗は、自らのコンソールに向き直った。

「人々が信じるのは、データじゃない。物語なんだ。俺は、俺の言葉で、それを書くしかない」

その頃、司令室では、もう一つの戦いの準備が、着々と進んでいた。

ホログラムテーブルの上には、SOLON(ソロン)東京中央郵便ハブの、完璧な三次元マップが映し出されている。それは、24時間、365日、無数のドローンとオートマトンだけが稼働する、巨大な無人の要塞だった。

「ターゲットは、これだ」

リョウが、マップ上の一点を指し示した。そこには、一つの小さな郵便物が、赤い光点となって表示されている。差出人不明、宛先エレナ・アマリ。旧式の、物理輸送ルートに乗せられた、イレギュラーな存在。

「SOLON(ソロン)は、この小包を『低優先度の異常オブジェクト』と認識している。だが、エレナ・アマリ自身が、直属のエージェントを数名、このハブに派遣したとの情報が入った。奴らも、物理的な回収に動いている。連中より先に、我々がこれを手に入れる」

リョウの立てた作戦は、大胆不敵そのものだった。

ハブのエネルギー供給システムに、ソーン博士が開発した指向性EMPを撃ち込み、ほんの数秒間だけ、一部区画の機能を麻痺させる。その間に、リョウを含む4名の突入班が、建物の排熱ダクトから内部に侵入。ターゲットを回収し、撤収する。

「リスクが高すぎる」チームの一人が言った。「EMPが他のシステムに干渉すれば、我々の存在がSOLON(ソロン)に完全に露見するぞ」

「だから、やるんだ」リョウは、冷たく言い放った。「危険だからこそ、奴らは、俺たちのような『誤差』が、そんな無謀な手で来るとは予測していない。それに…」

彼は、司令室の隅で、モニターと格闘している海斗の姿を一瞥した。

「『歴史家』先生が、せっかく大きな賭けをしてくれたんだ。そのチップを、ここで無駄死にさせるわけにはいかねえだろ」

その夜。

海斗は、ついに、彼の「物語」を書き上げた。

それは、わずか3分で読み上げられる、短いテキストだった。彼は、事実を並べることをやめた。代わりに、カール・ヒグドンという一人の男が、森で何を見て、何を失ったのかを、ただ、静かに語った。そして、日本の漁師、佐藤健司が、娘に何を言い遺したのかを。

そして、彼は、最後の言葉を綴った。それは、革命の扇動ではなかった。戦いの呼びかけでもなかった。

それは、たった一つの、静かな「お願い」だった。

> …私は、あなたに、戦えとは言いません。ただ、一つだけ、お願いがあります。

> 明日、太陽の下に出た時、あるいは、部屋の明かりの下で、よく見てください。

> あなたを導く、完璧で、素晴らしい指導者たちの、その足元を。

> 彼らの『影』を。

> 真実は、光が暴く、その僅かな歪みの中にあります。

> そして、一度、それを見てしまったら。

> あなたはもう、二度と、昨日と同じ世界を見ることはできなくなるでしょう

>

彼は、完成したファイルを、アルゴスに提出した。

ほぼ同時に、司令室の空気が、張り詰めた。突入班のメンバーが、黒い戦闘服に身を固め、最終チェックを行っている。

アルゴスが、海斗の隣に、音もなく立った。

「リョウたちが出撃する。君が投じた『変数』を、回収するためにな」

老人は、作戦司令室のモニターに映し出された、武装した兵士たちの姿を見つめていた。

「そして、彼らが陽動の混乱を作り出している、まさにそのタイミングで、君の『物語』は、世界に放たれる。準備はいいか、歴史家」

海斗は、頷いた。

モニターの中のリョウたちが、物理的な戦場へと向かっていく。

そして、自分は、これから、言葉という武器だけを手に、全人類の精神という、広大な戦場へと向かうのだ。

二つの戦場で、同時に、戦いの火蓋が切られようとしていた。

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