第八章:計算外の変数

水島海斗の言葉は、静寂な部屋に、一滴の毒のように落ちた。

エレナ・アマリの紫水晶の瞳に走った動揺は、ほんの一瞬だった。だが、海斗は見逃さなかった。完璧な能面の裏に隠された、生身の感情の痙攣を。彼女は次の瞬間には、もう完璧なポーカーフェイスを取り戻していたが、部屋の空気は、明らかに変わっていた。

「……面白い冗談ね」

エレナは、かろうじて微笑みの形を保ちながら言った。

「原始的な、物理的な郵便システム。SOLON(ソロン)の管理外にある、非効率の極み。そんなものに、私たちの未来を左右する力があるとでも?」

「力があるかどうかは、あなたが決めることじゃない」海斗は言った。「それは、それを見る『人間』が決めることだ。あなたたちには、もう分からないかもしれないが」

その時だった。エレナの瞳の光が、ふっと消えた。いや、光が消えたのではない。その焦点が、この部屋ではない、どこか別の場所へと飛んだのだ。彼女の身体はソファに座ったままだが、その意識は、光速でSOLON(ソロン)の思考の海へとダイブしている。彼女は、彼らの神と、直接対話しているのだ。

海斗は、息を殺してその様子を見守った。彼女は、AIと融合した、新人類。その姿は、神託を待つ巫女のようにも、あるいは、本体から切り離された端末が、サーバーへと再接続するようにも見えた。

数秒後、エレナの瞳に、再び光が戻った。だが、その色合いは先ほどとは微妙に違っていた。そこには、彼女自身のものとは思えない、冷徹な、純粋な論理の光が宿っていた。

「SOLON(ソロン)の計算結果が出たわ」

彼女の声は、もはや彼女のものではなく、部屋全体から響いてくるようだった。

「当該オブジェクトが、指定の宛先に到達する前に、我々のエージェントによって回収される確率は99.8%。万が一、到達した場合においても、それが社会の安定に影響を及ぼす確率は0.01%未満。結論として、あなたの行動は、興味深いものの、取るに足らない変数と判断された」

絶対的な自信。AIの、神の宣告。

だが、海斗は、エレナの瞳の奥に、0.01%の確率に怯える、人間的な揺らぎを見た気がした。SOLON(ソロン)は、論理で世界を測る。だが、エレナは違う。彼女は、ハイブリッドだ。非論理的な「人間」の衝動が、どれほどの混沌を生むか、その身をもって知っているはずだ。

「そうかしらね」海斗は挑発するように言った。「その0.01%が、世界をひっくり返した歴史を、俺はいくつも知っている」

「黙りなさい」

エレナの声に、初めて苛立ちの色が混じった。彼女は立ち上がると、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。

「あなたの処遇について、新しい指示が出たわ。あなたを殺すのは、非効率的。あなたが持つ『ノイズ』は、解析対象として、まだ利用価値がある」

壁の一部が、音もなくスライドして、新たな通路が現れた。

「来なさい、海斗さん。あなたに、新しい『職場』を用意した」

海斗は、抗うことなく立ち上がった。彼が連れていかれたのは、同じ建物の、最上階に近い一室だった。そこは、牢獄とは程遠い、最高級の居住空間だった。広々としたリビング、機能的なキッチン、そして、壁一面が、床から天井までの巨大なウィンドウになっている。

窓の外には、夜の東京の、宝石をちりばめたような絶景が広がっていた。

だが、海斗はすぐに気づいた。これは、本物の窓ではない。超高解像度の、有機ディスプレイだ。彼に見せられているのは、SOLON(ソロン)が作り出した、完璧な景色のシミュレーションに過ぎない。

「ここが、あなたの新しい家よ」

エレナが言った。

「食事も、健康管理も、全てSOLON(ソロン)が最適化してくれる。必要な情報にも、ある程度アクセスを許可しましょう。ただし、外部との通信は、一切できない。あなたは、私の個人的な監督下に置かれる」

「……軟禁、というわけか」

「いいえ。『保護』よ」エレナは訂正した。「あなたのような、予測不能な変数を、これ以上、野放しにはしておけない。あなたはここで、私のための特別なアドバイザーになってもらうわ。テーマは、『人間の非合理性について』。あなたが愛してやまない、その混沌の価値を、私に教えてちょうだい」

それは、究極の皮肉だった。彼は、鳥かごの中の鳥として、鳥の歌の素晴らしさを、飼い主に講義するのだ。

エレナは部屋を去り、海斗は一人、残された。完璧な家具、完璧な室温、完璧な景色。だが、そこは、宇宙で最も孤独な、豪華な独房だった。捕まる前に持っていたものは、全て取り上げられた。あのデータチップも、もちろんない。彼に残された武器は、もはや、自らの記憶だけだった。

彼は、絶望的な気分で、壁のフードディスペンサーを操作した。栄養バランスの取れた、味気ないペースト状の食事が、トレーに乗って出てくる。

だが、そのトレーの隅に、あるはずのないものが乗っていた。

一つだけ。

旧式の、紙に包まれた角砂糖。

海斗は、目を見開いた。なんだ、これは。SOLON(ソロン)の完璧なシステムが、こんなエラーを起こすはずがない。この世界では、食品の個別包装など、20年前に廃止されたはずだ。

震える指で、その小さな紙包みを手に取る。そっと開くと、中から、白い角砂糖が転がり出た。

そして、その包み紙の内側。そこに、インクですらない、おそらくはレーザーか何かで刻まれた、極小の文字列があるのを、彼は見つけた。

それは、一つの座標を示すらしき、16桁の数字の羅列。

そして、その隣に、小さな、手書きのような、不格好な「目」のシンボルが描かれていた。

これは、エレナからのメッセージではない。SOLON(ソロン)のものでも、断じてない。

この完璧な監視社会の、そのシステムの内部から、何者かが彼に接触してきたのだ。

海斗は、悟った。

彼は、独りではなかった。このガラスのユートピアの壁の向こうにも、真実に気づき、戦おうとしている人間が、確かに存在する。

ゲームの盤上に、第三のプレイヤーが現れた。

海斗は、角砂糖をポケットに隠すと、夜景のシミュレーションに向かって、かすかに、しかし力強く、頷いた。

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