第4話
何とか入学式を終えた舞夜は、漆原と夜刀に挟まれるようにして廊下を歩いていた。
白鷺生である紗世と蓮とは、式典のあとに校舎前で別れた。白鷺校舎と烏羽校舎は中庭を挟んで向かい合っており、外観こそ同じだが、中に入ると雰囲気はまるで別世界だった。
構内はどこか薄暗く、壁の至るところにスプレーの落書き。
乱雑な掲示物、打ち捨てられた椅子、傾いたロッカー。
──え、ここほんとにあの赫白学園?
まるで漫画で見た“ヤンキー校”そのものだ。と舞夜は思わず身をすくめた。
「……あの~、漆原先生。本当に大丈夫ですよね?私、死んだりしませんよね?食べられたりとか……」
恐る恐る尋ねた舞夜に、隣の夜刀が吹き出した。
「はっ、誰がそんな貧相な肉、食うかよ」
「貧相で悪かったわね!!」
間髪入れずに食ってかかる舞夜と、それを面白がる夜刀。
出会って間もないというのに、すでに犬猿の仲だった。──いや、すでに軽口を叩けるあたり、ある意味で息は合っている。
口では噛みつき合っているが、舞夜は夜刀に対して本気で怯えてはいない。
夜刀の方も、どこか楽しんでいる節がある。
──仲良いなー、こいつら。
なんて、漆原はどこか他人事のように思いながら、ポケットから煙草を取り出す。
──……まあ、最初にしては上出来か。
天秤制度が始まって以来、この最初の壁を越えられずに心を折る生徒は多かった。
けれど、舞夜にはちゃんと反発する意志がある。見てくれより、よっぽど骨がある。
「まあ、一応、“人間を理解する”ための制度だしな。食われる心配はねーよ」
そう言って、漆原は煙草に火をつけた。
くゆる煙が、廊下の薄闇に静かに溶けていく。
舞夜はふと気になって、尋ねた。
「……他の学年には、天秤生っていないんですか?」
「ああ、もういねぇ。白鷺にも、烏羽にもな」
漆原は煙を吐きながら、さらりと答える。
「前にいたやつらは、全員辞めた。記憶は消されて、転校先が決まるまでは学園で預かってたらしい。……まあ、穏便な幕引きってやつだ」
「……全員」
その一言が、舞夜の胸に重く沈んだ。
やっぱり、この制度は異常だ。
人間を“理解”すると言いながら、結局は見世物か実験台じゃないのか。
でも──逃げ場は、もうない。
しばらく無言で歩いたあと、漆原がぼそりとつぶやいた。
「ま。あんたも辞めたくなったら……俺に言いに来い」
軽口のはずなのに、どういうわけか、その声だけはやけに優しく聞こえた。
まるで、心の奥を見透かされたようで悔しかった。
けれど、舞夜にはもう帰る場所なんてない。
辞めたって、どこにも行けない。
「……はい」
舞夜は、力なく返事をした。
「着いたぞ」
漆原が立ち止まり、目の前の教室を顎でしゃくった。
ドアには「一年教室」のプレート。
そのすぐ下に、乱暴にスプレーで書き殴られた《喧嘩上等》の文字。
舞夜は顔を引きつらせ、引き返したい衝動にかられる。
「こ、ここですか……?ホントに?」
誰がどう見ても、明らかにヤバい空気が漂っている。
「開けるぞ」
ぶっきらぼうな漆原の声に、舞夜は肩をビクッと震わせた。
「ちょ、ちょっと待って!まだ心の準備が──!」
言い終わる前に、漆原がドアを開けた。
重たい空気と、刺すような視線が一気に流れ込んでくる。前列の席から、窓際の奥の席まで。誰もが興味本位でこちらを見ている。
すでに教室にはほぼ全員の生徒が揃っていた。ドアが開くと同時に、教室内のざわつきがぴたりと止まる。
「……あれ、人間?」
「こいつが天秤生ってやつか」
「なんだ、思ったよりちっこいな」
冷たい視線と嘲笑が突き刺さる。舞夜はたまらず身をすくめた。
「ハッ、ビビってんのかよ。情けねぇツラだな」
舞夜はハッと顔を上げ、反射的に睨みつける。
けれど、反論の言葉は出てこなかった。
夜刀の言う通りだ。
入学式での言葉、そして今のこの空気。
人間である自分は、ここでは完全な“異物”だ。それを思い知らされた。
黒い羽根。異形の角。
同じ「生徒」と呼ばれているはずなのに、自分とは明らかに違う存在。
──ビビるなっていう方が、無理でしょ……
舞夜は心の中で呟いた。
「ったく。しょうがねぇな。人間はよえーからな」
夜刀がぽつりとつぶやく。
その声はどこか、呆れ混じりの優しさを含んでいた。
そして、舞夜の肩に夜刀の片腕が回された。
教室の空気が、音を立てて凍る。
「おい、てめーら。俺の許可なしに、こいつに手ぇ出すの、禁止な」
静かに、だが確実に響いたその一言。
ざわっ──
教室がどよめいた。
「はあ!? 夜刀だけずりぃだろ!」
「なにその専属扱い」
「マジかよ、あの夜刀が誰かに興味持つとか……」
不満や驚きの声が次々と上がる。
だが、夜刀は一歩も引かない。むしろ、微かに苛立ちすら見せていた。
「うっせーな。俺が世話役任されてんだよ。勝手にいじって俺に迷惑かけんな。……それだけだ」
理不尽極まりない理屈だったが、誰もそれ以上は言い返さなかった。
「ま、夜刀がついてるなら大丈夫だろ」
漆原も無責任に一言だけ放る。
「静かにしろー。今日からお前ら悪ガキの担任になる漆原だ。……そして、もう知ってると思うが、こいつが高等部から導入される天秤生だ」
漆原が舞夜に目をやり、小さく顎をしゃくって促す。
「水瀬舞夜……です」
本来なら「よろしくお願いします」と続けるのが礼儀なのだろうが、仲良くできる未来がまるで見えず、その一言がどうしても出てこなかった。
「とりあえず、一ヶ月。こいつが辞めなければ、お前ら全員に“骨”をやる。何の骨かは知らんけどな」
その言葉に舞夜は固まった。
──いや、骨って……
そんなので喜ぶやつがいるのかと呆れていると。
「うぉぉーっ!マジかよ!」
「漆原、それ絶対な!約束だからな!」
「骨か~、やべぇ、テンション上がる~!」
何故かめちゃくちゃ好評だった。
「いや、骨でそんな喜ぶ!?どんだけなの!?」
思わず素で突っ込まずにはいられなかった。
「え?だってBONEだぜ?なんか語感がかっこいいじゃん?」
「髑髏とか骨って、いかすだろ~!」
舞夜はふと、目の前の存在が“人”ではないことを思い出した。
悪魔なのに、どこか厨二病みたいなノリ。
「ぷはっ、何それ」
思わず、舞夜の口元から笑みがこぼれた。
「笑った……!おい、人間が笑ったぞ!」
「やった!俺たちが笑わせたんだよな!?」
「へぇ、笑うと可愛いじゃ~ん。ま、私の次にだけど♡」
「これなら、一ヶ月とか余裕っしょ~?」
教室に、ざわつきとは別の熱が走る。
舞夜も、自分でも気づかぬうちに、ほんの少しだけ──肩の力が抜けていた。
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